都立大を降りて、目黒通りを渡り、すぐ左に曲がると、目黒氷川神社までの参道が商店街になっている。その途中でふと右を見ると、東光寺の山門が見える。
実は、よく近くを通っているのに、常圓寺への道だと思い込んでいた。
あれ、何か違うなと思ったら、立派な山門があった。左には幼稚園がある。もちろん、東光寺幼稚園だ。東光寺は曹洞宗のお寺だ。ひどく暑い日だったが、このお寺の境内は空気がしっとりとしている。
私は学生時代の一時期を、毎朝座禅を組むことが義務の寮で過ごしていたことがある。当時、河原に転がっている岩でボルダリングをやっていた関係で、毎日のようにヨガをやっていて皆が参加するお寺の参禅には行かなかったが、朝はきちんと座禅を組んでいた。
確か皆が行っていたのは曹洞宗のお寺だったと思う。ふと、また座禅を組んでみたいなと思い、参禅会の案内などないだろうかと見回したがなかった。
山門左にめぐろ風景55の看板がでていた。
東光寺と心字池(しんじいけ)
奥州地方の探題(たんだい 見張り役)だった吉良家(きら)は上州から世田谷豪(ごう)、今の豪徳寺(ごうとくじ)付近に移って城を構え、貞治(じょうじ)4年(1365)には碑文谷、衾(ふすま)を領地に加えていた。
東光寺は当時の城主吉良治家(はるいえ)が、若くして死んだ我が子のために建てたと伝えられ、その後の吉良家の厚い庇護(ひご)のもとで、衾(ふすま)村開発の拠点となっている。
心(こころ)の字を模した池のある閑静な日本庭園が美しい。
東光寺は隣の常圓寺より敷地が2倍くらい広いようだ。本堂も立派だ。
この境内にも大イチョウがある。こちらは雄株。隣の常圓寺は雌株なのだそうだ。
道元禅師の像があった。
本堂は、私のような素人が見ても建築に使われた材料のよさが分かる。本堂は閉まっていたので中は見ることができなかった。東光寺のサイトを探してみたけれど、残念ながらなかった。
幸福を呼ぶ東光寺の七福神。なんとなく楽しい雰囲気がある。
左から恵比寿様、大黒天様、弁財天様、福禄寿様、布袋和尚様、寿老人様、毘沙門天様である。
東光寺
貞治4年(1365)、当時の世田谷城主吉良治家(きらはるいえ)が、10歳で早世した子息の祖朝(ちかとも)の菩提を弔うために建てたのが当寺です。
吉良氏は中世にかけて世田谷・目黒地域に勢力を誇った一族で、吉良氏の庇護のもと、東光寺は碑文谷の法華寺(ほっけじ 現、円融寺)とともに栄えました。
創建当初は「東岡寺」と称し臨済宗でしたが、天正19年(1591)頃に現在と同じ「東光寺」と改め、さらに江戸時代の初めには曹洞宗へと変わりました。
墓地の中を西に上がっていった先には、吉良氏一族の墓といわれる3基の石塔があり、その内2基は宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。3基はそれぞれ吉良祖朝・7代城主頼貞・8代城主氏朝の娘の3人の墓と伝えられています。
また、境内には歴代住職の墓が並んでいて、寺の古い歴史を物語っています。
本堂の裏手には禅寺らしい落ち着いた雰囲気の庭園があり、本堂正面には雄株の大銀杏(いちょう)がそびえ立っています。
本堂の左手には墓地との間にちょっとした広い空間がある。
奥左手に並んでいるのが、六地蔵菩薩。
そして、本堂に続く廊下(?)の下をくぐると、何やら上に行く石段が見える。
狭い空間なのだが、石段があり、なにか箱庭的な雰囲気でどこかの山の中に来たような気がしてくる。
これが心字池だ。きれいな庭園だ。
東光寺の敷地の裏は、八雲1丁目アパートと目黒区民キャンパスだ。東光寺の墓地はかなり広いのでおばけが怖い人は別だが、八雲1丁目アパートに住むと、パーシモンホール(大・小)と体育館と天井の高い蔵書の多い目黒区立八雲中央図書館が至近距離(目と鼻の先)にあるという住環境だ。
もちろん、駒沢公園もすぐそばだ。唯一困ったことは、都立大学駅は急行も特急も停まらないことだ。朝だけは余裕を持って家を出なければならない。
東光寺
目黒区八雲1-9-11
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