あてにならないかもしれんが私的東京観光案内 | 歩いて見てきた東京観光案内。東京って狭いのになんでこんなに場所によって雰囲気が違うのかね。 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com 歩いて見てきた東京観光案内。東京って狭いのになんでこんなに場所によって雰囲気が違うのかね。 Tue, 02 Jun 2020 00:58:16 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.3 慈眼寺 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2794 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2794#respond Tue, 02 Jun 2020 00:58:16 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2794 渋谷から246を二子玉川に向かって走り、環八を右折してすぐに左折する。多分適当に走っても木がたくさんあるところを目指せばお寺と神社がある場所にたどり着く。その中の1つが慈眼寺だ。

慈眼寺山門

公式サイトがある。丁寧な説明だ。

慈眼寺・index

山門を入ると、一部工事中だったが、ジャマにならないように進む。

本堂はコンクリート造で初めて来たので、賽銭を入れようと思ったが、扉が完全に閉まっていて賽銭を入れられなかった。ご挨拶だけした。

本堂

せたがや社寺と史跡(その二)にはこのように書かれていた。

慈眼寺

喜楽山教令院慈眼寺という。新義真言宗で神奈川県小杉村西明寺の末寺で,京都の醍醐寺派に属する。

徳治元年(1306)法印定音が巡錫の途上,この地を通ったとき里人が滝ヶ谷戸崖の中段から降三世明王を発掘したのをゆずりうけ郷土長崎四郎左衞門に告げ,天の奇異なのを思い,定音は小堂を建て,これをおまつりした。たまたま里人が障害をこうむったので再び像を地におさめ代りの像をきざんでおまつりした。里人その像をしたいくる者多く,仏堂(修験所)を改築した。定音は正中元年(1324)8月6日寂となっている。

長崎四郎左衞門(長崎家初代の重光法名,行善の弟)がこの崖下にあった修験所を天文2年栄音外護等信の力をかり,崖の上にうつし,東向7間の堂をたて本尊大日如来を安置し,慈眼寺と称し,またこの頃,真言宗になったといわれている。

長崎家の系図によると四代の嘉国(四郎衛門慰)がこの寺を修理していることが,記録されているが,なお御嶽権現も鎮座されている。長崎家は菩提所として,行善寺を小田原から移しているので,この寺は,祈願所にあてられた。

明治維新後は,墓所を設定するようになり,現在260位の檀家があり,小説家甲賀三郎の墓がある。

本尊大日如来の木坐像は,嘉永6年(1853年)に大火災にあっている。寺伝に難をさけて来たとあるので確かなものと思われる。寺の過去帳しは「花園天皇の御念踊仏を相伝せる祐宣僧正の系統により,当山は永世五七の桐を定紋となすことを知るべし,文化十年三月之を記す」とある。定紋は本堂の屋根の棟につけてある。

なお,本尊の胎内には長崎家の系図があるという。

本堂にかかっていた扁額。

扁額

本堂の右に寺務所がある。

寺務所

東京都世田谷区瀬田4丁目10−3

地図などはこちら。

慈眼寺 · 〒158-0095 東京都世田谷区瀬田4丁目10−3
★★★★☆ · 仏教寺院
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瀬田玉川神社 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2810 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2810#respond Mon, 01 Jun 2020 03:50:35 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2810 246を渋谷から二子玉川に向かって走り、環八を越えたところで、右折する。このあたりは、なぜかお寺や神社が多い。その中の一つが、瀬田玉川神社だ。

公式サイトがあった。

瀬田玉川神社【公式】
瀬田玉川神社は、約450年前から、瀬田・二子玉川を中心とした地域の氏神さまとして、人々に崇められてきました。多摩川の河岸段丘である国分寺崖線の丘の上に鎮座し、多摩川を見渡し、遠くに富士山を望み、移り行く街の変化とこの地域に暮らす人々を見守っています。都会の中の鎮守の杜に包まれた清々しい聖域に、誘われてみませんかー。

急な石段を上っていく。最初の鳥居の先にまた石段と鳥居がある。

石段を上ると狛犬さんがいる。顔がかわいい。

こちらは右。

狛犬さんの向こうにもう一つ鳥居と石段があり、そこからが境内みたいだ。

思ったより長い参道は木が多い。そこを抜けると明るい境内が広がる。

境内は明るい。本殿は大きくはないが立派だ。おや、狛犬さんがマスクしている。

めったにないことだから、記念に撮っておこう。

こちらは右。

初めて来たので、念入りにご挨拶させていただいた。境内はていねいに手入れされていて気持ちがよい。

せたがや寺社と史跡(その二)には次のように書かれていた。

玉川神社

祭神は大己貴命・日本武尊・少彦名命で,創立は永禄2年(1559)10月といわれている。境内には末社として,祓戸神社,三峯神社を祭り,その祭神は祓戸4柱神・大己貴命である。

神社の由緒書によれば「永禄年中(1558~70)該村字下屋敷へ勧請す。その後,寛永3寅年(1626)宇滝ヶ谷辺の現在位置へ長崎四郎左衞門嘉国之を遷座す。口伝,同村真言宗慈眼寺権大僧都源長を始めて別当となし,明治七年四月二日村社に定められ,明治四十年五月四日神饌幣帛料供進指定社に列す。明治四十一年四月一日前称御嶽神社を地名により玉川神社と改称し,現在に至ると」ある。

祭礼は10月20日の例大祭,11月28日新嘗祭,2月20日祈年祭が行われている。

本殿と社務所をつなげる廊下の下に稲荷社の赤い鳥居があったので、そちらにも行ってみた。

こちらにもご挨拶を。

また境内に戻ると、駐車場の向こうに神楽殿があるのに気がついた。

社務所は大きくて立派だ。駐車場も含めると境内はかなり広い。

東京都世田谷区瀬田4丁目11−31

地図などはこちら。

瀬田玉川神社 · 〒158-0095 東京都世田谷区瀬田4丁目11−31
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行善寺 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2792 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2792#respond Thu, 28 May 2020 02:26:24 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2792 いつも多摩サイに走りに行くときは、駒沢通りから丸子川沿いの道を走る。上流に向かう時は二子玉川につながる道を走るのだが、田園都市線のガードをくぐる手前の信号を右に。

かなり急な坂だがなんとか登れる。平坦になった道を少し走ると左手に行善寺がある。

行善寺入口

外から見ても、きれいに整備されている感じが伝わってくる。空気もそんな感じだ。山門は奥だが手前に案内看板があった。

行善寺案内板

獅子山西光院 行善寺(浄土宗)

本寺の開基(かいき)は長崎伊予守重光(法名・行善)、開山は法蓮社印誉上人伝光和尚(ほうれんしゃいんよしょうにんでんこう)であり、永禄年間(一五五八~一五六九)に建立された。

本尊は阿弥陀如来で、寺宝には玉川出現楠薬師(くすやくし)があった。

この地は展望にめぐまれ、江戸時代から玉川八景として有名であり、将軍も遊覧の折、しばしば立ち寄った。

二子橋舟     太田子徳

玉くしけ二子のわたり明ぬやと
見しや鵜舟の篝也(かがりなり)けり

昭和五十年二月

世田谷区教育委員会

境内に入ると、すぐに大きな檜がある。

檜

これが3つに分かれているのだ。これが行善寺のシンボルなのだろう。

三本に分かれた檜

小さいが厳かな雰囲気がある山門をくぐる。境内は石畳と石が敷かれている。木の手入れも行き届いていて、空気が凛としている。

山門

なぜか山門から真正面に本堂が建てられていない。本堂を正確に撮ろうとするとこんな感じになる。

本堂正面から

本堂はコンクリート造りだ。昭和39年に新築されたそうだ。

本堂

行善寺

浄土宗,獅子山西光院といい,喜多見の慶元寺の末寺である。

開基は長崎伊予守重光(法名行善)で,過去帳にようると,長崎氏は今川義元の家臣となっているが,後北条氏につかえたものらしい。天正18年(1590)に北条氏が没落したとき,瀬田郷に土着した,そのまえの永禄年間(1558~69)に伊予守重光は小田原の菩提所「道栄寺」から,先祖のいはいをたずさえて,瀬田郷にきたという,これをまつった寺が行善寺の前身である。

開山は法蓮社印誉上人伝公和尚であり,本尊は阿弥陀如来である。

寺宝には「玉川出現楠薬師仏があった獅子山行善寺,瀬田村,寛永2年の頃矢藤権兵衛と云者,玉川の流八幡下から百網にて引上る,取之」(武蔵演路)また「当寺縁起に六斉念仏おどり,此草より始めるといえり」とある。享保5年(1720年)10月12日の念仏同行19人の像が墓地の入口にある。

天保年間に11代将軍家斉のおなりや,12代将軍家慶の世つぎの右大将家定の休息があった。江戸時代多摩川の水害がたびたびあったので,生活を打開するため,台地上の開発がおこなわれるようになり,寛永3年(1626年)重光から4代の四郎衛門慰嘉国の時,行善寺下西北10数町歩の「下屋敷」から「原」へ上った。行善寺もその頃まで坂下にあったと考えられる。

近くの慈眼寺や御嶽権現は31年後の万治年中に台地上に移されている。

行善寺の建物は,明治19年の火災で多くの寺宝と共に焼失している。以後木造の寺が再建されたが,昭和39年11月本堂,客殿などが現代風の鉄筋に新築され,遠く多摩川堤付近からも,そびえて見える。

成島司道の『玉川遊記』にあるように,この台地は眺望が極めてよいことで世に知られ,瀬田の黄稲,岡本の紅葉,大蔵の夜雨,登戸の晩鐘,富士の晴雪,川辺の夕烟,吉沢の暁月,二子の帰帆は行善寺八景として知られていた。

長崎家当主行重氏は,重光入道行善から15代である。10代範重は二子村と両持を命ぜられ,12代重行は,天保3年徳川家慶将軍玉川鮎御成のとき長崎家で休息,13代重国は旧幕府硝石御取締に任ぜられた事がある。

「獅子山」と書かれた扁額がかかっていた。

扁額

このように木がすべて細かく手入れされている。

境内

境内に入ってすぐ左にあるお堂は何だろうと思ったら左の石柱に「多摩川新四國八十八ヶ所第三十八番」と書かれていた。

お堂

東京都世田谷区瀬田1丁目12−23

地図などはこちら。

行善寺 · 〒158-0095 東京都世田谷区瀬田1丁目12−23 浄土宗行善寺
★★★★☆ · 仏教寺院
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龍雲寺 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2770 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2770#respond Mon, 11 May 2020 21:56:13 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2770 環七の龍雲寺信号から入ればすぐにわかる。立派な山門がある龍泉寺。

龍雲寺山門

山門には大澤山と書かれた扁額がかかっていた。

臨済宗龍雲禅寺と書かれている。臨済宗のお寺だ。公式サイトもある。

大澤山 龍雲寺 | 臨済宗 妙心寺派
大澤山龍雲寺は、野沢​龍雲寺という愛称でも親しまれ、東京都世田谷区にある臨済宗妙心寺派の寺院です。当寺では仏の教えに導かれる貴重な行事の数々を開催しております。

石碑

山門を入ると左に鐘楼があった。

境内は石畳になっていてとてもきれいに手入れされている。多分、30年くらい前に1度来たことがあると思うのだが、記憶が定かではない。

石畳

左手にはお地蔵さんと呼んでよいのか?

石仏

正面に一期一会と書かれた石柱がある。

石柱

右手の方に歩いて行くとコンクリート造りの本堂があった。何となくなのだが禅宗のお寺の造りは似ているように感じる。

本堂

こちらは龍雲禅寺と書かれていた。

扁額

せたがや社寺と史跡(その一)にはこのように書かれていた。

竜雲寺

臨済宗妙心寺派に属し妙心寺の末,大沢山竜雲寺という。

当寺は環状7号線の沿線にあったが,昭和40年約200m程奥の当番地へ移築移転した。建物は鉄筋コンクリート平屋建,本堂109.25坪,書院58.03坪,庫裡54.14坪,山門10.45坪鐘楼7坪がある。

この寺は元禄12年(1699)大法正眼国師鑑珪大和尚の法嗣節外大和尚(特賜大慈妙応禅師)が旧野沢1~51(旭小学校敷地内)に30町歩の寺領を有する大沢山竜雲寺を建て盤珪国師作聖観世音菩薩・八臂弁財天の二仏を安置し住民の信仰の中心とした。

元禄16年9月霊源大和尚(勅謚正偏知覚禅師)は諸堂伽藍を完成したが,安政2年(1855)10月の大地震のため伽藍は大破し,翌安政3年同町3丁目40番地へ移転した。当時無住のため復興ははかどらず記録はことごとく紛失して荒廃に帰したが,明治38年3月当時の和尚により本堂を建て大正3年3月山門を改築,昭和2年11月書院を増築した。その後町の発展により現在地に移転した。

「新編武蔵国風土記稿」によれば「抱地四丁四方許,小名中丸ノ北ニアリ,臨済宗京都妙心寺ノ末大沢山ト号ス,開闢ノ来由ヲタヅヌルニ,昔下馬引沢ニ智見寺トイヘル廃寺ノアリシニ江戸麻布光林寺ノ三世霊源蔭和尚年老テソコニ隠居セリ,本堂七間ニ五間南向本尊如意輪観音坐像木仏一尺許,麻布光林寺開山鑁慶和尚ノ作ヲ安ゼリ,門南向両柱ノ間九尺鐘楼門ヲ入ッテ右ニアリ,九尺四方,鐘ノワタリ二尺五寸許,長四尺余,銘文考証ニ用ナケレバトラズ,地蔵堂,本堂ニ向イ右ニアリ,二間四方南向地蔵菩薩木仏立像長二尺五寸恵心僧都ノ作ナリト云」とある。

この通り、歩くところは全て石畳が敷いてある。

順路

境内社があり、こちらは榛名神社と三峯神社。

榛名神社と三峯神社

榛名神社があるとは。

鳥居の先

その隣には稲荷社があった。

稲荷社

東京都世田谷区野沢3丁目38−1

地図などはこちら。

龍雲寺 · 〒154-0003 東京都世田谷区野沢3丁目38−1
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野沢稲荷神社 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2755 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2755#respond Fri, 08 May 2020 09:24:47 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2755 都立大学駅から環七を246に向かって走る。龍雲寺通りに入り龍雲寺手前で左に曲がると道沿いに野沢稲荷神社がある。境内は小さいが、木が多く遠くから見てもわかる。

鳥居と入口

鳥居の中にはいると、ほぼ木陰になっている。木の高さがあるのだ。鬱蒼としているわけではない。空気の通りがよい感じの場所。

すぐそばに手水舎があったが、今どきのコロナ感染防止のため使用不可であった。

手水舎

拝殿は大きくはない。この日は太陽光線が強く、コントラストが極端になっていて屋根は完全に白飛びしてしまった。

拝殿

境内に案内板はなかったが、せたがや寺社と史跡(その三)より。

野沢稲荷神社

祭神は倉稲魂神にして稲荷神社と称す。町の中央にあり古くより鎮守の神として尊崇されている。

「新編武蔵国風土記稿」に「稲荷社除地三畝村ノ中央ニアリ本社九尺ニ一間巽ニ向ヒ拝殿二間ニ三間ヲ建続ク前ニ鳥居アリ両柱ノ間六尺鎮座ノ年歴ヲ詳ニセズ神躰七寸詐木像白狐ニノリ稲穂ヲ持,烏帽子束帯ノ形ナリ当所ノ鎮守ニテ祭礼ハ九月十八日神楽ヲ奏ス(以下略)」とある。

昔は拝殿といえど拝宮だけであったが明治37年10月拝殿を作り其の後昭和8年に社務所を建設し神楽殿は昔よりの草葺を瓦に替えて増築した。境内敷地約350坪(約1155m2)あり,祭礼は現在8月○(空欄)日。神社の北隅に間口1m,奥行1.1m,高さ1.5m程のお堂の中に青面金剛(石造)が鎮座され,石造の表に元禄八年十一月吉日と彫刻してある。

同一の境内に神社と青面金剛とが鎮座されていることは稲荷神社の創建に関係があるのでは無いかと推察される。

ご神木はイチョウの大木だ。

ご神木のもと

上を見上げるとこの通り。勢いがある。どのくらいの樹齢なんだろう。

梢

初めて来たので、早速、ご挨拶をさせていただいた。今は、コロナ収束も祈らずにはいられない。

本殿の左には稲荷神社のなんというのだろう。石碑、いや石板かな。

本殿の右手には神楽殿があった。こちらはなかなか大きい。

東京都世田谷区野沢2丁目2−13

地図などはこちら。

野沢稲荷神社 · 〒154-0003 東京都世田谷区野沢2丁目2−13 野沢稲荷神社
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東玉川神社 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2732 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2732#respond Fri, 01 May 2020 06:57:15 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2732 駒沢公園から自由通りを中原街道に向かってずっと走る。自由通りと中原街道がぶつかるのは、東急池上線の雪が谷大塚駅前だが、その少し手前、左側に東玉川神社がある。

こぢんまりした神社だが、見た瞬間に雰囲気がいいなとわかる。

東玉川神社

鳥居の手前左に世田谷区の案内板がある。世田谷区は意外と案内板がないところが多いのでもっと整備してほしいね。

案内板

世田谷区登録有形文化財(建造物)
東玉川神社社殿(ひがしたまがわじんじゃしゃでん) 一棟

登録年月日 平成二十一年三月三十一日

この社殿は昭和十四年(一九三九年)に拝殿(はいでん)、翌十五年(一九四〇年)に本殿(ほんでん)を渋谷区本町の氷川神社から譲り受けて移築したものです。伝統的な和様の社殿は、地域の歴史を伝える建造物として貴重なものです。

向背(こうはい)の天井板には、弘化二年(一八四五年)、萬遷による「火炎龍神像(かえんりゅうじんぞう)」(正面座臥 ざが)が水墨で描かれています。

あたりを祓う高位尊厳とすさまじさが火焔となって立ち昇り、邪悪を祓う姿を表現したものです。

平成二十三年七月

世田谷区教育委員会

鳥居をくぐると、すぐ左側に何やら石碑が。ちらっと読むと御由緒が書かれているのがわかった。読みにくいので、とりあえず一枚撮っておいた。

東玉川神社社殿修復落成記念碑

東玉川神社社殿修復落成記念碑

御祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)(大国主命の第二神開拓の神) 大山咋命(おおやまぐいのみこと)(五穀豊穣の神)

東玉川神社は清流多摩川と平行した、自由通りに位置し、風水の龍脈にあたります。当神社は今から約二百有余年前に、長野県の諏訪大社から御分霊を勧請し、鎮守の神と崇め篤い信仰を受け、代々の神職は氏子、崇敬者の家内安全、農耕繁栄、商売繁盛等を祈願してきました。

尚、現在の社殿は、昭和十四年に渋谷の地より移築されたもので、「新編武蔵国風土記稿」に慶長十年(一六〇五)徳川二代将軍秀忠の頃と記された由緒ある建物です。

向拝の天井には、「火焔龍神」の絵が水墨で描かれ、左下に弘化元年(一八四四)と著されております。約四百年の風雪に耐えた社殿は、青銅の屋根が腐食、瓦の破損、拝殿の扉などが傷み、その修復を総代会で決議し、奉賛会(鈴木幸雄会長)を結成、五ヵ月間にわたる工事も無事修復を終え、十月二十四日落成奉告祭を斎行いたしました。

大神様の御神徳のお陰はもとより、氏子崇敬者の真心の結晶であります。ここに、多額奉納者の芳名を記し、顕彰いたします。

平成十一年十一月吉日

宮司 関根光男 謹書

右に手水舎があったが、時節柄、使用不可であった。

手水舎

細い参道を歩いて行くと、何となく楽しい気持ちになってくる。ここはよい場所だなと思う。

参道から本殿

さて、ご挨拶させていただこう。

本殿

左の狛犬さん。

狛犬

右の狛犬さん。

狛犬

本殿は大きくはないが、ここに立っているのが気持ちよい感じがする。

本殿

コロナが早く収束するようにお願いした。

せたがや寺社と史跡(その二)にはこのように書かれていた。

東玉川神社

もと等々力村に属し,字を諏訪分と称し,下沼部・奥沢本村・雪ヶ谷の3村に囲まれた地で,大平分とも称した。現在,東玉川町となったので,その鎮守諏訪神社を東玉川神社と改めた。大平分というのは大平出羽守の砦があったからだという。

東玉川神社は,勧請の年月不詳,『新編武蔵国風土記稿』によると,「社二間ニ九尺,同村西光寺ノ持」となっていた。

祭神は大山昨神・建御名方神で,例祭は8月22日である。西光寺は廃寺で,等々力村にあり,住慶山と号し,満願寺の塔頭で,本尊は大日如来の1尺5寸(45cm)の坐像,火災にあって,わずかに庵室のみが残っていた。

そして見上げると、これが「火焔龍神」の水墨画だ。

本殿から参道をふり返ったところ。

隣には、撮らなかったが神楽殿と、稲荷社があった。

東京都世田谷区東玉川1丁目32−9

地図などはこちら。

Google マップ
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北野神社 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2706 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2706#respond Mon, 27 Apr 2020 07:49:00 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2706 環七若林踏切から246方向に走ると、右手にイエローハットが見えるが、その手前に北野神社がある。環七沿いだが、あらっというくらい境内が狭い。

石段を上るとすぐ目の前が本殿だ。

環七はなにしろ交通量が多い。ひっきりなしに車が走っているので、境内の空気はいつもうごいているように感じる。

扁額には天満宮と書かれていた。

御由緒など看板がなかったので、この場所に行ってもわからない。

せたがや寺社と史跡(その一)に次のように書かれていた。

北野神社

祭神は菅原道真公。

武蔵国深大寺の住僧長弁花光坊の「私案抄」には,応永8年(1401)にここで連歌法楽を興行したことが見え,当時ご神体は石で,石天神と称せられていたという。

江戸時代は牛に乗った天神が御祭神で牛天神といわれ,境内に井戸があり,白蛇が棲んでいると伝えられた。

昔は虫歯の病気に霊験あらたかで,虫歯をやんだ時は天神に祈り,神殿の格子戸に下げた総楊子を借りて治療し,治ったならば,新しい総楊子をあげる習慣があったという。

総楊子は、総(ふさ)ようじと読み、先端を打ち砕いて〈ふさ〉のようにしたもので、もっぱら歯を磨くのに用いられたとある。(出典:総ようじ

御由緒を読むと、白蛇が出て来たり、虫歯に霊験あらたかとなかなか面白い。学問の神様だとばかり思っていた。

いつも千社札を興味を持って見ている。デザインがいろいろあって面白い。これ、どうやって貼っているんだろう?

東京都世田谷区若林3丁目34

地図などはこちら。

北野神社(若林天満宮) · 〒154-0023 東京都世田谷区若林3丁目34−16 若林天満宮
★★★★☆ · 神社
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三宿神社 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2704 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2704#respond Sun, 26 Apr 2020 10:29:55 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2704 渋谷から246を二子玉川に向かって走り、三宿の信号を右折三宿池尻の信号を左折して鮫洲大山線を道なりに走り、緑道に出たところで左折するとすぐに三宿神社がある。木が多いのでわかりやすい。

参道が長く敷地が細長く坂道を上るのが特徴だ。すぐに手水舎があったが、時節柄、使用不可である。

境内には木が多く、少し暑く感じる日だったが木陰は涼しい。

この鳥居をくぐると、右手は神楽殿だった。なかなか大きな建物。

本殿に上る石段下に狛犬さんがいた。こちらは左。

そして右。

石段を上るとまた別の狛犬さんがいた。左。

こちらは右。

本殿は高い場所にあるので、立っていると気持ちがよい。早速、ご挨拶をした。自分のこともあるが、今はコロナが納まることを祈らずにはいられない。

世田谷区の案内板がなかったので、せたがや寺社と史跡(その一)から。

三宿神社

祭神は倉稲魂命をまつった稲荷社であるが,毘沙門天(木像1尺位)も祀られているので一名毘沙門様とも称せられている。昔多門寺(現在廃寺)の境内にあった毘沙門堂の本尊をうつしたものと伝えられ,現在の社殿は昭和42年の建築である。

三宿町の氏神で例祭は9月23日であるが,奉納される神楽のうちに,たぬきばやしがあるが,これは養老の滝の物語の孝子がたぬきを助けたという伝説にちなんだものだといわれている。

二の鳥居の傍に昭和31年土地の有志が建立した石碑がある。この石は旧江戸城に築かれていた城石だということで,表の面に、

過去五百年之進歩道灌不知
未来五百年之進歩我等不知
石又沈黙
江戸城築之石
大田道灌築城五百年
武者小路実篤

とある。

本殿左には稲荷社がある。

御由緒を読むとこちらがもともとの祭神なのかな。

頭の上を飛行機が通過していった。

本殿から来た道を振りかえるとこのように高低差が結構ある。

木が多い境内は空気がきれいでいいなと思った。

東京都世田谷区三宿2丁目27−6

地図などはこちら。

三宿神社 · 〒154-0005 東京都世田谷区三宿2丁目27−6
★★★★☆ · 神社
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円泉寺 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2686 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2686#respond Fri, 24 Apr 2020 10:49:57 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2686 三軒茶屋から茶沢通りを走ると、代沢十字路の手前で右を見るとこんもりとした木が見える。住宅地の中の細い道を少し走ると、円泉寺がある。太子堂の地名はこの場所がルーツだ。

円泉寺

山門はないが、右に聖徳太子の碑と大木の洞に庚申堂があり、これがすごいのだ。大木は腐ってしまって途中から切られている。回りに立っている石柱は、車の衝突よけだろう。

庚申堂

もう少し近寄って撮った。

拡大図

入口の左には案内板があった。

円泉寺案内板

円泉寺

聖王山法明院とよび、真言宗である。文禄五年(一五九七)に建てられ、開山は賢恵僧都である。本尊は不動明王立像及び二童子像である。また境内の太子堂には聖徳太子像がまつられ、太子堂の地名は、これにもとづいている。

世田谷教育会の恩人宮野芟平先生の碑がある。先生は、明治三年郷学所がつくられてから、太子堂幼童学所、荏原学校と、なまえは変っても、引きつづき校長として郷土の教育につくした。この荏原学校は区内最初の小学校である。

昭和四十九年三月
世田谷区教育委員会

境内は完全に舗装されていて土が出ていないが、よい空気が漂っている。後ろのマンションが都会のお寺らしい。

境内

入って右に太子堂がある。

太子堂

階段を上ってご挨拶。太子堂の扁額があった。

太子堂扁額

こちらが本堂になるのかな。

本堂

こちらでもご挨拶させていただいた。南無大師遍照金剛。

本堂

扁額には霊王山と書いてあるのかな。

せたがや社寺と史跡(その一)には円泉寺についてもっと詳細にこのように書かれていました。

円泉寺

真言宗,聖王山,法明院と号し,開山は賢恵僧都で葛飾郡新堀村の生れである。円泉寺の建立由来書によると,文禄1年(1592)賢恵僧都が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観世音を背負って関東へ下った。

文禄4年当地に来て一泊した時、賢恵僧都が不思議な夢をみた。聖徳太子が告げていうには「この地に霊地あり円泉ヶ丘といふ。つねに霊泉湧き出づ,永くここに安住せん。汝も共に止まるべし」と,翌文禄5年12月本堂,聖徳太子堂,庫裡が完成,本堂には運慶の作といわれる長さ約1mの十一面観世音立像を安置して本尊とした。

太子堂は,境内の中央にあり,約2間半4方で,長押に長谷の僧正動潮の筆になる「太子堂」の扁額がある。聖徳太子の像は約1尺1寸で弘仁9年(818)春,天下に大疫病流行の時疾疫の消除と国民擁護のため,弘法大師がこの尊像を精魂こめて作られたものと伝えられ,難症難治の病をいやし給うた所願成就の尊像である。

この堂が出来てから土地は繁栄し一つの村をなすようになり,太子堂の号をとって太子堂村というようになった。

円泉寺には現在泉は湧き出ていないが,この辺りは太子堂町でも低い所で円泉が丘すなわち今の国立小児病院一帯に樹林が繁茂していた昔は,霊泉の湧き出る清浄な所であったと思われる。

また,境内には世田谷教育会の大恩人である宮野芟平先生の碑がある。明治3年に世田谷村,松沢村,玉川村,目黒村,碑衾村の有志が協力して「郷学所」を作り宮野先生を迎えた。この郷学所は,今までの寺子屋と違い新時代に適した教材と,四民平等の新しい思想によって身分の上下を問わず教育した。

明治4年4月3日,太子堂村380番地に立派な校舎を新設し,「太子堂郷学所」と命名し,明治6年2月東京府の指令で「幼童学所」と改称され,明治6年12月「太子堂幼童所」をそのまま新学制の小学校にし,「第二中学区第四番小学荏原学校」となる。ここに世田谷区内で第1番目の小学校が生まれたわけで,宮野先生はその初代校長に任命され,以後引き続き校長として世田谷区の教育に尽力し明治28年3月現職中に逝去した。

先生の高徳を長く後世に残すために明治20年荏原小学校が火災にあい焼失したとき一時仮校舎であったこの円泉寺の境内に頌徳の碑が建てられた。

本堂右手に寺務所がある。

そばに大師像もあった。

帰り道、このお寺の塀の前に林芙美子旧居の案内板があるのを発見した。

林芙美子旧居の案内板

林芙美子旧居
(太子堂三丁目29)

此の露地奥の二軒長屋は、林芙美子の不遇な時代の寓居です。その一軒には壺井繁治、栄夫婦が住み、若い頃の平林たい子も度々訪れました。

芙美子の処女作「放浪記」にはこの頃の太子堂での生活の一こまが描かれています。

壺井栄の「はたちの芙美子」にも当時の生活が記されています。芙美子のすぐれた文学性が磨かれた場所として文学史上、記念されるべき場所と言ってよいでしょう。

昭和四十七年三月
世田谷区教育委員会

東京都世田谷区太子堂3丁目30−8

地図などはこちら。

圓泉寺 · 〒154-0004 東京都世田谷区太子堂3丁目30−8
★★★★☆ · 仏教寺院
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醫王寺 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2673 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2673#respond Wed, 15 Apr 2020 08:01:55 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2673 駒沢通りを走り、日体大手前の深沢不動隣に醫王寺はある。何度前を通ったかわからないが、寄ったのは初めてだった。境内に創作和食 田 (でん) という料理屋さんがあって、看板が出ているので、お寺があると思わず、すごく立派な料理屋さんがあると思っていたのだ。

山門がコロナのためか閉まっていたので、駐車場から入った。

医王寺境内と本堂

境内は少し乾いている感じ。駒沢通りのすぐ横で大きな木がたくさんあるわけでないから仕方がないかもしれない。

境内右に、弘法大師一千百年御遠忌供養塔があった。このあたりの感じだと、もともと木がたくさんあったのかもしれない。

弘法大師一千百年御遠忌供養塔

山門は閉まっているのだが、山門から本堂の方を見た。こんな感じに見える。

医王寺山門から本堂

本堂は参拝する人のために、少しだけ開いていた。

医王寺本堂

醫王寺の扁額

医王寺扁額

世田谷寺社と史跡(その二)にはこのように書かれている。

医王寺

真言宗智山派で満願寺末,薬王山宝寿院と号す。寛永2年(1625)に谷岡又左衛門尉庸重により開基せられた。開山は僧正霊応大和尚である。宝暦11年(1761)本堂より火を発し,薬師堂を除く外は全部鳥有に帰した。時の憲勝和尚は責任を感じて等空と改名し,付近に等空庵という庵を結び,毎日観音像を背負い再興のため托鉢をなすこと3年,付近の住民の協力を得て再建された。

本尊は大日如来で,前記の観音像を本堂の横に堂を建てて安置した。本尊の台座には開基の名を彫っている。

『新編武蔵国風土記稿』によれば,「除地一段歩,村ノ中央ニアリ,(中略)開基谷岡又左衛門重久,元禄四年正月九日死ス,法名法寿院ト号ス,(中略)本尊大日如来坐像ニテ長二尺,本堂七間ニ五間半,門両柱ノ間九尺,本堂トモニ東向ナリ,薬師堂門ヲ入テ右二アリ,三間四面薬師如来ヲ安ズ,長1尺,木像」と記している。

寛文12年(1672)に谷岡重勝の奉納した扁額や太田三左衞門左良の奉納した「瑠璃殿」の扁額がある。『深沢明細録』によれば,大額は竜沢の書,瑠璃殿のは浅草大護院道本阿闍梨筆,仏前のは豪徳寺東流禅師の筆,向拝のは道本の筆,聯は東流筆であった。

東方くすりのめくみふか沢のふかきちからの瑠璃の玉水 左良

昭和20年戦災で焼失し,近年鉄筋コンクリート造となった。

本堂から振りかえるとこんな感じ。

医王寺本堂から振りかえる

境内に入って右の隅に小さな祠があった。可愛い顔をしたキツネさんが守っていた。

医王寺境内の小祠

東京都世田谷区深沢6丁目14−2

地図などはこちら。

醫王寺 · 〒158-0081 東京都世田谷区深沢6丁目14−2
★★★★☆ · 仏教寺院
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傳乗寺 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2642 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2642#respond Tue, 07 Apr 2020 08:02:04 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2642 駒沢公園から駒八通りを道なりに走り、目黒通り、環八を越えて急坂(国分寺崖線)を下りていくと右手に傳乗寺がある。隣は宇佐神社だ。通り沿いにある山門。小さいがすごく立派だ。

山門をくぐると、ああ、いい場所だなと思う。空気に適度な湿り気があり、落ち着いている。しかも向こうには、五重塔がある。建物、敷石など一つ一つにかなり手間がかかっているのが素人の私でもわかる。

ちなみに境内は決して広くない。本堂の左に墓地があるが、それをあわせた敷地面積も広くはない。

本堂と寺務所だ。下の画像の赤い部分は、駐車場なのである。境内は広くない。狭い方かもしれない。しかし、掃除や手入れが行き届いていてすごく気持ちがよい空間だ。

本堂は閉まっていた。

松高山という扁額があった。

せたがや寺社と史跡(その二)によると、このように書かれていた。

伝乗寺

次太夫堀(六郷用水)のほとり,北側にある。松高山法生院と号し,浄土宗で,川崎市小田中の泉沢寺の末,開山は住誉良公和尚という。本尊は阿弥陀如来で木の坐像3尺(約1m)ばかりで,板碑を数多く存している。『新編武蔵国風土記稿』によれば,「除地三段五畝,宇根通ニアリ,(中略)本堂ハ六間ニ四間,南向ナリ。(中略)表門両柱ノ間9尺」と記している。

寛政10年(1798)の西村和泉守作になる村念仏講中の伏鉦がある。

享和2年(1802)に「さいの神」の火が移って焼失したことがあった。本堂は文化4年(1807)3月に,庫裡は享和2年(1802)2月に建てられている。

本堂の地蔵菩薩立像は頭部のみ古作で,一木で保存もよく,美しい。藤原期のもので胴体は後補である。小阿弥陀如来座像は鎌倉期のものである。

本堂の柱に狛犬さんが。左。

こちらは右。

本堂の左は墓地の出入り口。本堂の左斜め後ろに五重塔がある。新しい感じだ。ネットで調べてみると、2005年と書かれた記事がいくつか出て来たので、2005年に建てられたようだ。

くるくるまわるようになっていた。南無阿弥陀仏と書かれているのかな。

駐車場の後ろに山門があるので出てみると、金剛力士が安置された仁王門だった。こちらが正式な山門なんだ。私が入った山門は、クルマの出入口を兼ねている。

来た道を引き返すと、登り坂の右手に寮の坂と書かれた石柱があるのに気がついた。

回り込むと道標でもあるらしい。籠谷戸ってなんだろう?

丸子川に注ぐ「籠谷戸(ろうやと)」の流れをたどる-高校を抜ける湧水暗渠という記事に詳しく書かれていた。

丸子川に注ぐ「籠谷戸(ろうやと)」の流れをたどる-高校を抜ける湧水暗渠 | 東京の水 2009 fragments
国分寺崖線に沿って流れる丸子川を歩いていると、世田谷区から大田区へ入る手前のあたりで、急に水質が良くなっているところがあった。 護岸を見てみると、右...

籠谷戸は谷のことで、16世紀中ごろまで、多摩川の入り江だった。様々な物資がこの入り江を利用して荷揚げされ、現在の九品仏・浄真寺のところにあった「奥沢城」まで運ばれたというと書かれていた。

寮の坂由来という石碑があった。

寮の坂由来

松高山傳乗寺は 区内における古刹でありその縁起は遠く後伏見天皇の正和五年(一三一六)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである 往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し かつ本堂とならんで僧侶の学寮が建てられていたために この坂道を土地の人は寮の坂と呼んでいる 坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせると この坂の名称の由来が思い起こされる

なお寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は 室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で多摩川の水が滔滔と打ち寄せ 時の奥沢城主大平出羽守は 上流から運ばれた武器兵糧の類を籠谷戸 寮の坂あたりに陸揚げをして城へ運び入れたともいい伝えられている

さらに時代は下り江戸時代に入ると川崎泉沢寺と奥沢淨真寺の中間軍事拠点として尾山傳乗寺がこれに当り 寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである

走ってきた駒八通りは、確かに奥沢淨真寺、九品仏のすぐ横を通る。このあたりが多摩川からの荷揚げルートだったと知ると面白い。

坂道の向こうを見ると、多摩川の対岸、川崎側が見える。この坂を下りると東京都市大学がある。

東京都世田谷区尾山台2丁目10−3

地図などはこちら。

傳乗寺 · 〒158-0086 東京都世田谷区尾山台2丁目10−3
★★★★☆ · 仏教寺院
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宇佐神社 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2625 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2625#respond Mon, 06 Apr 2020 09:45:17 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2625 駒沢公園の弓道場の前にローソンがあるが、そこから始まる駒八通りを走ると、目黒通りを越え、環八を越えると国分寺崖線の崖になるが、その下り坂の途中に宇佐神社はある。最寄りの駅は、東急尾山台駅だ。

駒八通りを走るのも、宇佐神社に来るのも初めてだ。道からわりと小さい鳥居をくぐって石段を上るまで意外と距離がある。

境内はこんな感じだ。大きくないがきれいに手入れされている。奥が森になっている。左が神楽殿、右が社務所と住居。

森はグーグルマップで拡大していくと、八幡塚古墳と書かれていた。鳥居ではなく、少し上の神社の駐車場から入ると、途中で立入禁止のコーンが立っているので入ることはできない。

手水舎もこぢんまりしていた。

神楽殿がずいぶんと大きい。

本殿もかわいい。

左の狛犬さん。

右の狛犬さん。

そして本殿。扁額はかかっていなかった。

せたがや寺社と史跡(その二)にはこのように書かれていた。

宇佐神社

祭神は応神天皇で,例祭は9月23日,境内末社として稲荷神社(倉稲魂命)御嶽神社(大己貴命・日本武之命・少名彦名之命)を祀る。村内に散在したものを明治年間に合祀したものである。

神殿には狐塚から発掘した刀・土器片などを奉納してあるという。

『新編武蔵国風土記稿』によると,「除地二段,村ノ中央宇根通リノ内ニアリ,社九尺二二間,南向,中ニ又宮作リノ社アリ,前ニ鳥居ヲタツ,両柱ノ間七尺,元禄十二年ノ夏,七世精蓮社進誉貞悦ノ時再造セシトミエテ,ソノ時ノ棟札アリ,祭礼九月二十三日ニ行フ,伝乗寺持ナリ,注連引松二株アリ,向ヒテ鳥居ノ右ニアリ,囲尺一丈六七尺モ有ベシ,末社稲荷社向テ右ニアリ,上屋一間ニ一間半,神明社末社ヨリ東北ノ角ノ山ニアリ,南向ナリ」とある。

『新編武蔵国風土記稿』に,大塚・宇堂ノ上ニアリ,事跡ツマビラカナラズ」とあるものであろう。かつてこれを開墾した際,埴輪・土偶・刀剣の類を出したという。前方後円墳であろうという。

狐塚の話は、昭和44年以前の話だ。八幡塚古墳からは、平成4年の調査で埋蔵品が多数見つかったようだ。

八幡塚古墳北主体部出土品 | 世田谷区ホームページ
区指定文化財 八幡塚古墳北主体部出土品の紹介

本殿から振りかえると、武蔵小杉の高層ビル群が見える。

本殿の左奥には雰囲気がなんとなくよい感じの石仏が置かれていたが、由来はわからなかった。

帰ろうとした時に、石碑に御由緒が書かれているのを発見した。ただ、ほとんど読めない。こういう時は一枚撮って、後で拡大しながら読むのがよい。

宇佐神社由緒

誉田別命(応神天皇)

当社は今から九百年前八幡太郎義家の父源頼義公の創建になるものであります。第七十代後冷泉天皇の御代の永承六年に 安倍頼時その子貞任宗任が 朝廷に謀叛をおこしました。頼義公は 朝廷に討伐を命ぜられ京より武蔵の国に入り ここ尾山の地に陣営を張りました。

すると大空には白雲が八つに分かれてたなびき その形が源氏の白旗のように見えたので大いに喜び 頼義公は地に跪き源氏の氏神である八幡様に 勝利の暁にはこの地に必ず八幡社を建てることを誓い蝦夷地に向かいました。

戦いは九年に及び ようやく康平五年安倍一族を平定し意気揚々と京に凱旋する道すがら 尾山の地に立ち寄りました。そして頼義公は先年の誓いによって この地に社を建てて八幡様をまつり 戦勝を報告し神に感謝しました。これが宇佐神社の起りであります。

以来宇佐神社は霊験あらたかな神として 人々の尊崇厚く平和を導く尊い神様武運の神様として 広く崇められてきました。

東京都世田谷区尾山台2丁目11−3

地図などはこちら。

宇佐神社 · 〒158-0086 東京都世田谷区尾山台2丁目11−3
★★★★☆ · 神社
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六所神社 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2581 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2581#respond Sat, 04 Apr 2020 06:51:12 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2581 駒沢通りから丸子川沿いに丸子橋に向かって走ると、中華風(?)な特徴がある善養密寺の前を通るが、その隣にあるのが六所神社。丸子川沿いの道からは見えないの気がつかなかった。もちろん、初めて行った。

丸子川からここまでかなり急な登り坂だ。国分寺崖線の崖。

石垣と石段があり、かなり立派な造り。

境内は広い。

境内に入ると、少し印象が変わった。本殿は新しい感じがして大きい。末社も立派だ。ただ、あまり人が来ている感じがしないのは季節のためか気のせいか?

手水舎は、自分で水道栓をひねって水を出す仕組みだ。水はあまりたまっていなかった。そうか、こんな所が人が来ていないように感じられたのか。

神楽殿も大きい。

立派な本殿である。コンクリート造りで広い。

せたがや寺社と史跡(その二)にはこのように紹介されていた。

六所神社

六所神社は元和年間(1615~23)遷座と伝え、古くより上下野毛両部落の鎮守で,上下野毛境にあった。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊で,例祭は9月26日である。

明治31年に村内の末社天祖神社・山際神社・日枝神社・北野神社の4社合祀となり,新たにその祭神天照大神・大山都見之命・大山昨之命・菅原道真を現在地に奉斎した。ただし,合祀社は明治23年に天祖神社に合祀したのを,さらに六所神社に合祀したのである。

『新編武蔵国風土記稿』によると,「除地一段五畝,(中略)上屋九尺二間,本社六尺ニ八尺,西向ナリ」とある。この社は昔洪水のとき,府中の方より流れ来るものがあり,この所の榎の枝にかかったのを取上げて見ると小祠であった。府中の方からも流れてきたというので,土地の人は六所明神と崇めて1社を草創したという。鳥居も西向きに立て,別当は善養寺であった。

現在,鉄筋コンクリート造の社殿を建造中で11月に落成する。聖地の際,石鏃・縄文土器片が多数発見された。近くに六所東貝塚があった。縄文前期に属する,黒浜式と諸磯式で,多摩川に面する斜面に形成されていた。

貝殻には,ヤマトシジミ・ハマグリ・マガキ・アカニシ・キサゴ・シオフキなどがあり,当時は東京湾の海水が浸入していたと思われるが,ヤマトシジミが多いことはすでにこの付近は河口になっていたことを示しているのかもしれない。もちろん竪穴住居が設けられていた。

ここは国分寺崖線の崖だから海ではないが、ここから貝殻がたくさん発見されたので、昔はこのあたりが河口だったかもしれないという話。

ちなみに、ここから今の河口、羽田の弁天橋あたりまでは、まだ10キロほどの距離がある。

伊弉諾尊はいざなぎのみこと、伊弉冉尊はいざなみのみことである。この(その二)は昭和44年、1969年に発行されている。今から50年前のことだ。その頃にこの社殿が完成したということになる。

左の狛犬さん。

右の狛犬さん。

扁額も1枚撮った。

本殿の左に末社の多摩川水神社がある。ここが面白かった。御由緒を知りたいところだ。

鳥居をくぐると、小さな「多摩川水神橋」がある。

川にはこのようになまずとコイが泳いでいるのだ。

狛犬さんの顔もなんだかかわいい感じだ。

本殿から多摩川を見下ろすことができる。丸子橋までもう少しだから、武蔵小杉の高層ビル群が見えている。

東京都世田谷区野毛2丁目14−2

地図などはこちら。

野毛六所神社 · 〒158-0092 東京都世田谷区野毛2丁目14−2
★★★★☆ · 神社
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覚願寺 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2579 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2579#respond Sat, 04 Apr 2020 03:02:31 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2579 東急上野毛駅から環八を渡り、多摩川に向かう国分寺崖線の坂道を途中で左に曲がると覚願寺がある。幼稚園が併設されていて、境内が幼稚園の庭としても使われている。

山門のすぐ後ろに大木がある。

世田谷区の保存樹木になっている。ケヤキだそうだ。

山門をくぐって左を見るとお堂がある。

右が幼稚園。このように境内には子供用の遊具もある。

満開になった桜は、このところ低温だったので、まだ花がたくさんついている。

まずご挨拶をさせていただいた。

本堂の左には世田谷区の案内板があった。

覚願寺

自性山聖徳院覚願寺(じしょうざんしょうとくいんかくがんじ)と称し、真言宗智山派に属する古刹である。

「新編武蔵国風土記稿」には、「此寺元は村の西の方台の下にありしが、いつの頃からか此所に移せし」とのみあり、その創建の時期を明らかにしていない。

しかし、文禄三年(一五九四)の『武州荏原郡世田谷領上野毛郷御縄打屋敷帳』には覚願寺の名が見えており、この頃寺地が確定したと考えられる。

本尊は大日如来で、脇仏として弘法大師と興教大師が祀られている。

なお、享保六年(一七二一)の『両大師造立帳』(当寺所蔵)には聖徳太子像(木造漆箔、江戸時代現存)が本尊であったことが記されている。当時の院号が「聖徳院」と称されているのはこのためだろう。その後、大日如来像が本尊とされたようで、現在もこの大日如来像が当寺の本尊となっている。

文政七年(一八二四)には本堂が大破したため大修理を行った記録が残されている。現存する本堂、観音堂は天保年間(一八三〇~一八四三)に再建されたものである。

総門は、昭和六十三年に造営された。

平成元年九月

世田谷区教育委員会

山門を入った左にあるお堂は、観音堂だとわかった。本堂から山門を振りかえる。

さらに、せたがや寺社と史跡(その二)には次のように書かれていた。

覚願寺

真言宗智山派に属し,自性山聖徳院覚願寺と称し,天文年間(今から約400年前)の建立と伝えられている。本尊は大日如来で,脇侍は弘法大師と興教大師で,位牌堂には聖徳太子,観音堂には聖観音像を奉安してある。

開基は詳らかでないがつぎの記録により天文年間,あるいはそれ以前の建立であることが立証される。

当山檀徒木村富次家の墓地に「天文十二年<1543>八月二十日,皈源寂山宗空居士覚粒・施主木村氏」の墓あり,同檀徒田中重義所蔵の検地帳(文禄3年<1549>10月6日)に,検地の案内者木村外記の名がでており,その外記の子孫が前記木村富次家である。

『御縄打屋敷帳』の中に「学岩寺」とあるのが当山覚願寺のことであり,その1節につぎのようなことが書かれてある。「小松原(字名)十五間に十四間の下畑七畝,筑後分学岩寺作,宮の前(稲荷神社前)二十五間に十間半の中田八畝二十二畝,助七郎分 覚願寺作「御縄御免引寺一間覚願寺作」とあり,1間とは1軒の義で,屋敷帳はすべて「御縄打」測量の結果たる当時の課税台帳となったのであり,寺は免除されたのである。

なお,当山什物「過去帳」の中の,明和9年(1772)別当覚願寺権大僧都頼憲の誌文をみると,瀬田八幡宮鳥居造営とあるように,他村の八幡宮(現玉川神社)の別当をつとめた。

天保年間(1830~44)までは専住によって壇信徒の護持と教風の宣揚につとめてきたが,弘化年(1844~8)間より任住不明(または断絶)のまま明治8年に至り,ようやく内藤隆深(現深沢医王寺)先々住の兼務によって護持され,昭和3年12月森同隆宥の専住によって漸次寺門の興隆がはかられ,昭和25年5月現住職が着任し今日に至っている。

東京都世田谷区上野毛2丁目15−15

地図などはこちら。

覚願寺 · 〒158-0093 東京都世田谷区上野毛2丁目15−15 覚願寺鈴蘭幼稚園
★★★★☆ · 仏教寺院
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上野毛稲荷神社 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2576 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2576#respond Fri, 03 Apr 2020 10:12:58 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2576 東急上野毛駅から環八を渡り、多摩川に向かって上野毛通りの急坂を下りていくと途中右手に上野毛稲荷神社がある。国分寺崖線の崖上になるのか。下まで走れば丸子川がある。五島美術館と隣接している。

小さな鳥居をくぐると、広い境内。右側が擁壁になっていて、擁壁をつくった時に寄付した人の名前が入っていた。かなり高さがあるので、擁壁ができるまでは土を止めるのが大変だったのではないか?

地面が白飛びしてしまったが、境内は本殿に行く道以外は柔らかい土だ。しかし、よくならされてきれいに掃き清められている。

大きな木がある。世田谷区の名木百選になっていて、「アカガシ」だそうだ。小さな社務所はあるが、無人であった。

本殿は閉まっていたがご挨拶させていただく。

せたがや社寺と史跡(その二)には次のように書かれている。

稲荷神社

祭神は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)で通称お稲荷さんとよばれ,玉川の台地末端の稲荷坂の途中にある。穀物や農業一般をつかさどる神としてまた上野毛の鎮守の神として古くから尊崇されている。『新編武蔵国風土記稿』に「稲荷社除地四畝歩,字橋際ノ上ニアリ,上屋二間二十九尺東向キナリ,中ニ三尺四方ノ祠アリ,由緒不詳ト言エドモ上野毛村ノ氏神ナリ」とある。

例大祭は10月10日,上野毛周辺地区よりの参詣客が集まり賑わう。

なお,鳥居左側に「菅公一千年祭再建,北野神社」の石碑があり,明治35年4月25日氏子総代によって建てられたものである。

急坂なので歩く人はあまり見かけないのだが、私が祈っている間に、後ろに2人来られた。これだけ丁寧に掃除されているのだから、地元の人に大切にされているのだろう。

本殿右には北野神社があった。

小さいが祠があった。

坂を下りると多摩川まですぐだ。上野毛通りは、駒沢通りより少し河口寄りである。二子玉川の高層マンションがこのように見える。

東京都世田谷区上野毛3丁目22−2

地図などはこちら。

Google マップ
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金剛寺 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2544 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2544#respond Fri, 27 Mar 2020 07:02:38 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2544 中町天祖神社と上野毛通りを挟んで反対側に金剛寺はある。大きな木があるので、離れたところからもわかりやすい。

山門右にある石碑。とても読みにくい。裏にきっと日付が入っているのだが、見てくるのを忘れた。

表には、「坂東七薬師 弘安七年聖空上人勧請 霊佛 北向薬師如来 東洋山薬王院金剛寺」と書かれている。

東洋山と書かれている山門。

山門の左には世田谷区の案内板があった。

東洋山薬王院金剛寺(真言宗)

弘安七年(一二八四)聖空上人が薬師如来を勧請、一宇を建立したのに始まり、野良田の北向薬師と称し坂東七薬師の一として信仰を集めた。この地に土着帰農した吉良の遺臣粕谷遠江守が入道して心臾道中沙弥と称し、慶長年間(一五九六~一六一四)頼栄法印を開山第一世として、金剛寺を創建し、一族の菩提寺とした。

本尊は大日如来。寺宝には絹本愛染明王像(天文十六年)鰐口(元禄十一年)金欄七条袈裟(正徳二年)がある。

昭和四十七年三月

世田谷区教育委員会

山門をくぐって、境内に入ると、あれっ、ここはよい場所だなとまず感じた。境内はそれほど広くはない。

本堂に向かって少し歩いて右を見ると案内板と薬師堂があった。眼病と安産に効験ありと書かれていた。

霊佛北向薬師如来縁起

弘安七年(一二八四)聖空上人巡錫の折武蔵國荏原郡野良田村(現中町)の厚木裏街道に北面した現在の地を卜し一宇を建立し薬師如来を勧請して世の淨信をあつむ

故に昔より野良田の北向薬師と称せられ霊験あらたかにして特に眼病・安産に効験ありと世人に厚く信仰され坂東七薬師の一つとして世に広く喧伝せられる

秘仏北向薬師如来は日光・月光両菩薩の脇侍と十二神将の眷属を従えている

旧堂宇は元禄期の建物故腐朽甚しく爲に昭和四十一年春再建す

東洋山薬王院金剛寺

こちらが本堂である。金剛寺の額が掲げられている。

本堂全体を正面から撮るのを忘れた。こちら右の大師像から。

せたがや社寺と史跡(その二)にはより詳しく書かれていた。

金剛寺

新義真言宗智山派に属し,京都智積院の末寺で,東洋山薬王院金剛寺と称する。本尊は大日如来で,脇侍は不動明王と観音菩薩である。

寺伝によれば弘安7年(1284)聖空上人巡錫の時、たまたま荏原郡野良田村(現在の玉川中町)に錫を止め現在の地を卜して一宇を建立し,薬師如来を勧請して世の浄信を集めた。

実にこれをもって金剛寺の開基とする。以来今日にいたるまで野良田の北向薬師と称し,霊験あらたかにして特に眼病・安産に効験あって世人に厚く信仰され,坂東の7薬師の一つとして世に広く喧伝せられている。山門に入って右側にある薬師堂に安置され,昔より秘仏として開扉を禁ぜられている。なお,旧堂宇は元禄期(1688~1704)の建物で腐朽甚しかったので,昭和41年,現在の間口3間(5m)奥行3間半(6m)のものに改築された。

天正18年7月(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により小田原の北条氏は滅亡し,従って麾下の世田谷城主吉良氏も衰亡したのであるが,吉良氏の重臣粕谷遠江守(与右衛門)は主家と運命をともにし,世を遁れて,弦巻村にひそみ,後,野良田村に移住,ここを開拓して土着した。

入道して法名を心臾道中沙弥(元和6年<1620>)と称し,3月21日没し行年82才,中町粕谷家の元祖で,以後代々宗家として野良田の名主をつとめた。ついでさきの聖空上人北向薬師如来を奉祀し,慶長年間(1596~1615)頼栄法印(慶安3年<1650>10月13日示寂)を請うて粕谷1族(現在70余家)の菩提寺金剛寺を現在地に建立した。

よって頼栄法印をもって金剛寺開山第1世とし,第26世の現住にいたっている。なお,旧本堂は関東大震災で倒壊したので,現住職が檀徒に請うて7間4面の現本堂を再建し,ついで客殿・山門などを建立して往時の旧観に復せしめた。

昔から寺に伝えられてきた宝物として,愛染明王像(絹本,天文16年<1547>奉納箱書)・青銅鰐口1口(薬師堂・元禄11年<1698>12月,粕谷伊兵衛基次・粕谷伝兵衛奉納)・金欄七条袈裟1領(正徳2年<1712>金剛寺住職定精法奉納)がある。

本堂から山門を振りかえる。

途中にならんでいるお地蔵さん。

山門を左から撮った。

東京都世田谷区中町2丁目20−11

地図などはこちら。

金剛寺 · 〒158-0091 東京都世田谷区中町2丁目20−11
★★★★☆ · 仏教寺院
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中町天祖神社 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2530 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2530#respond Thu, 26 Mar 2020 08:26:06 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2530 駒沢公園から駒沢通りを日体大方向に向かって走り、深沢不動前を左折して、駒沢公園通りを走る。東京都市大学等々力中高の校舎の前を右折、上野毛通りを上野毛に向かって走る。天祖神社前の信号右が、中町天祖神社だ。

道沿いに鳥居がある。立派な灯籠もあるのだが、案内板はなかった。

鳥居をくぐると、意外と参道が長い。もともと境内の敷地がもっと広かったのかもしれない。

手水舎。よく掃除されていた。湧き水ではないと思うが冷たい水だった。

左の狛犬さん。

右の狛犬さん。

境内に入ると、左に神楽堂があった。

こんな感じで境内は広い。右には社務所があるが、閉められていて無人だった。

本殿は小さくはないが大きくもないという感じだ。どこにも案内がないのでどんな神様が祀られているのか分からない。ちょっともったいないね。

せたがや社寺と史跡(その二)にこのように書かれていた。

天祖神社

祭神は天照大神・倉稲魂神(稲荷さま)で,玉川村野良田(現在の玉川中町)の鎮守氏神として古くから鎮座していたが,由緒は不明である。

『新編武蔵国風土記稿』に「神明社除地二反歩,村ノ鎮守ナリ。祭礼ハ九月二十二日,当村金剛寺ノ持ナリ」とあり,古くは神明社と呼ばれ,すぐ近くの金剛寺が管理していたようである。

当神社保存の『祭礼費勘定長』によれば,天保10年(1839)より明治34年10月までの祭礼費収支を記入してあり,神社名も慶応4年(1968)9月までは神明宮と称し,その後改名され,明治7年10月には天祖神社と明記されてある。

境内の末社として,祓戸神社,阿夫利神社,日枝神社が祀られ,祓戸4柱神,大山祇命,大山昨命がそれぞれ祭神である。

本殿向かって左側の稲荷神社の石柱に「奉納弁才天燈明台,為蚩民豊楽,五穀成就也」,「宝暦六丙子天二月吉辰,武州荏原郡世田谷領野良田村願主糟谷某,臼井某(名省略)」と刻まれてあり,この当時より野良田の鎮守として,また,五穀豊穣を祈る氏神として崇拝されてたことがわかる。

祭礼は毎年10月2日に行なわれ,氏子や中町近在の人々が集まり賑わっている。

当神社の由緒書に「境内は国有地五百二十八坪なり」とあり,昭和32年ごろまで本殿の周囲は雑木林や雑草におおわれ,広々とした鎮守の森の姿をとどめていたが,都市近郊の住宅地化にともなって,その雑木林も住宅地の一部となり,昭和36年ごろに現在の社務所・神楽殿も新築,参道左側には区立遊園地もつくられ,天祖神社のもとのおもかげは一新されている。

本殿左横には、今月のことばが貼られていた。斎藤茂太さんは北杜夫のお兄さんで精神科医だった方だ。久しぶりにお名前を聞いたような気がする。

本殿左に末社があったが、日枝神社と阿夫利神社と書かれていたが、祀られているのが蛇なのだ。思わず足が止まってしまった。

私は以前、茅場町の日枝神社に毎月参拝していたのだが、蛇との関わりは聞いたことがなかった。なぜなのかわからない。

社務所が立派なのに締め切ってあるのはもったいないなと思った。

東京都世田谷区中町3丁目18−1

地図などはこちら。

中町天祖神社 · 〒158-0091 東京都世田谷区中町3丁目18−1
★★★★☆ · 神社
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浄真寺(九品仏) 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2480 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2480#respond Wed, 25 Mar 2020 09:00:06 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2480 等々力の玉川神社から目黒通りを渡って、道なりに進むとやがて浄真寺(九品仏)にぶつかる。もちろん、駅名にもなっている東急大井町線の九品仏駅から歩けばすぐだ。

山門に着くまでにクロマツの並木がある。

公式サイトがあった。

九品山 唯在念佛院 浄真寺
「九品仏」の名で親しまれております当山の正式名称は「九品山唯在念佛院浄真寺」と号し、浄土宗に属する寺院でございます。延宝六年(1678)、奥沢城跡であったこの地を賜り創建致しました。数多くの災害や戦火を逃れ、創建当時を現在も残しております。

山門は境内の広さを考えるとかなり小さく感じる。

山門右に案内板があった。

創建の由来

当山は広く「九品仏(くほんぶつ)」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院淨眞寺(くほんざんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)」といい、浄土宗に属し、境内約12万m2(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678)に、奥沢城趾であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。

山門をくぐると、境内の広さが分かってきた。いや、かなり広い。桜が満開になりかけだったので参拝客も多い。

入ってすぐ左に閻魔堂がある。お賽銭を入れると、閻魔様がメッセージをくれる仕掛けになっている。

まっすぐ行って少し左に行ったところが本堂なのかなと思ったのだが、まだ先だった。ここは開山堂というのだそうだ。

門の右に説明書きがあった。

開山堂

当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来お告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運として広く信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当たる毎月七日の開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。

上人は元禄七年(1694年)10月7日、御年七十七歳にて示寂(じじゃく)され当山の西北にその御廟(ごびょう)がある。

建物は階段を上っていくようになっている。

階段を下りて門を出てから先に行くと、仁王門がある。

ふと見上げると、上にたくさん仏さまがいらっしゃるではないか。

仁王門の右下に案内板があった。

紫雲楼(仁王門)楼上の二十五菩薩

当山に参詣される人々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘厳の浄土(彼岸)であることを示している。この楼門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(らいこうえ)」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。

さらに、仁王門の説明もちゃんとあった。

仁王門

重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼(しうんろう)」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。

一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。

仁王門をくぐると境内の説明があった。

境内

境内周囲の土手はこの地がかつて奥沢城であったときからの名残りで、鎌倉期における築城学上「土塁(どるい)」の形態を示すものとして貴重な史料である。境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木の推定樹齢は七百年以上、また、トチ・高野マキ・菩提樹およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない。武蔵野の面影を残存する霊城である。

参道・総門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂(じきどう)などいわゆる七堂伽藍(しちどうがらん)の完備した僧房として数少ない寺院である。また、寺域全体が極楽浄土の様相に形どられ、弥陀三六(さぶろく)の願いに即して、境内3万6千坪、三仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂ケヤキ柱三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように、細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参詣結縁(けちえん)したならば、往生浄土の信心を得ることができるという願いがこもっているのである。このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失われていく都内の現状のなかできわめてたいせつなものである。将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。

その通り境内の周囲に土手がある。ここが奥沢城だったとは、案内板を読むまで知らなかった。案内板を撮るだけでも忙しい。しかし、案内板は必ず撮るようにしている。その場で読んでも記憶に全く残らないからだ。

仁王門の先も石畳が敷かれ、広い境内につながっている。右手に見えるのが本堂だ。

本堂に行くまでに、右を見ると池があった。浄真寺の裏には湧水池があったと聞いたことがあるが、こちらはポンプのような装置があったので、湧水ではないだろう。ただ、姿は見えないが、カエルが鳴いていた。

そうか、そんな季節なんだと思った。

本堂の手前には、仏足石があった。石に足形が彫ってある。

仏足石

大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足(みあし)に対して、接足作礼(せっそくさらい)により人々は哀心慕情の誠を示した。御入滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範に行われるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(せんぷくりんそう 法輪)が刻されているが、磨滅している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。

ようやく、本堂へ。読経の最中で、YouTubeで生中継しているのだとか。

もちろん、本堂の説明板もあった。

本堂

本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼(しゃかむに)如来(文化財)を安置し、当山第二世珂憶(かおく)上人代、元禄11年(1698年)三仏堂ともども上棟した。世に珂憶造りと称せられ、雄大荘重なる茅ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板葺に大修築を完了した。

本堂はまた「龍護殿(りゅうごでん)」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「来迎会」(おめんかぶり)は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏と二十五菩薩が来迎・往生・還来(げんらい)と3回橋を行道するものである。

もう一枚。アップで撮ったのも載せておこう。

本堂から振りかえると三つの仏堂が向こう側にある。周回できるように通路があるので、ぐるりと歩いて行く。まずは、中品堂へ。

建物全体を撮るのを忘れた。

案内板にはこんなことが書かれている。

三仏堂修覆

元禄11年~12年にかけて建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。

九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである(都有形文化財)。

三体ずつ阿弥陀如来像が入っているののだが、注意力がなくて二体しか写さなかった。

真ん中の上品堂に行くまでに、こんな看板が。

阿育王塔

阿育(あしょか)王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民に臨み、その恩徳国内に満ちたといわれる。インド各地に今も残る釈尊の遺跡に多くの石柱を建立して顕彰の誠を示された。現今のインドの国旗は、この石柱の頭部の法輪である。当山の王塔は、日本様式であり、天保年間のものである。

アショカ王は、昔、歴史で習った名前だ。詳しいことは忘れた。受験科目に選択しないとこんな調子だ。

隣の上品堂は、本堂の対面に建っている。

こちらから本堂を一枚撮った。

ちなみに、本堂から撮った上品堂はこちら。

上品堂の案内板には、来迎会(おめんかぶり)のことが書かれていた。

来迎会(おめんかぶり)

当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来二十五菩薩「来迎会(らいこうえ)」のことで、無形文化財に指定されている。念仏行者が臨終の夕べに、阿弥陀さまが二十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道(ぎょうどう)する尊くもまた厳粛な行事である。

このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。

なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観ください。

上品堂の阿弥陀如来像も三体あるのだが、よく分からないで撮っているので、一体しか撮らなかった。

その隣の下品堂に行くと、丁寧な案内板があった。これを読むと九品仏がよくわかる。

九品仏と三仏堂

珂碩上人(1617~94年)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳の時に完成した九躰の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、末代衆生化益(けやく)の尊い御仏像である。九躰とも文化財の指定を受け、上品(じょうぼん)堂(中央)、中品(ちゅうぼん)堂(右)、下品(げぼん)堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三躰ずつ安置してある。

上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには上品上生から下品下生まで九つの名があり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。

なにゆえに阿弥陀仏さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身(み)と口(くち)と意(こころ)の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患(わずら)うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃(じょうるり)寺(九躰寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。

なるほど、そういうことだったのか。下品堂では、三体の阿弥陀如来像を撮った。

帰る時に、離れて下品堂を一枚撮った。

東京都世田谷区奥沢7丁目41−3

地図などはこちら。

浄真寺 · 〒158-0083 東京都世田谷区奥沢7丁目41−3
★★★★☆ · 仏教寺院
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玉川神社 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2452 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2452#respond Mon, 23 Mar 2020 06:19:33 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2452 駒沢公園から駒沢公園通りを目黒通り方向に向かって道なりに走る。目黒通りに出るところにあるのが、玉川神社だ。最寄りの駅は、東急等々力駅。満願寺の道をはさんだ隣にある。こちらの鳥居から入ってしまったが、目黒通り沿いに大きな鳥居がある。

改めて表から入った。

鳥居の右に世田谷区の案内板があった。

玉川神社

祭神 伊弉諾尊 伊弉冊尊 天照皇大神
例祭 九月二十八日

文亀年間(一五〇一~四)に世田谷城主吉良頼康が勧請(かんじょう)したものと伝え、別当は満願寺で等々力村の鎮守であった。

明治五年に村社に定められ、同四十一年に熊野神社の社号を玉川神社と改め、付近の天祖神社、諏訪神社、御嶽神社を合祀した。

境内には、郷土開発の偉人、豊田正治翁の碑などがある。

昭和五十四年三月

世田谷区教育委員会

鳥居そばの狛犬さん。右。

そして左。

境内に入ると、すぐに右の木が目につく。すごく変な形。まるで壺のような形をしているのだ。自然にこうなったのか、人の手が加わったのか。

クスノキなのだそうだ。思わず木の回りを1周した。

境内は広い。もうずいぶん前のこと、15年以上前になると思うが一度来たことがある。その時の印象は、何となく枯れた雰囲気を感じたのだが、そんなことはなく、神社らしい空気だ。

手水舎は鳥よけなのか、プラスティックのふたを開けてひしゃくで水をすくうスタイル。

さて、ご挨拶をさせていただこう。

その前に、せたがや社寺と史跡(その二)から、もっと詳しい説明を読んでみよう。

玉川神社

祭神は伊弉諾命・速玉男命・事解命である。文亀年間に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え,明治41年熊野神社の社号を,いまの玉川神社に改め,宇上原にあった伊勢宮(天祖神社)諏訪神社,宇小山根にあった御嶽社を合祀した。なお,本社には天照大神,日本武命,少彦名命,建御名方命が合祀されている。

玉川神社の総本社である熊野新宮は,もともと熊野に移住した出雲族が,郷里の氏神であるところの島根県八束郡八雲村宇熊野にある熊野神社を分祀したもので,微々たる存在だったが,平安中期に起った熊野信仰の隆盛と共に,朝廷以下一般の民衆の支持により全国的に信仰せされ,鎌倉時代には,山伏や先達により全国に熊野神社が勧請され,特に,武士に厚く信仰されるようになり,代々社寺を尊崇した吉良頼康も,当村の流行でこの熊野神社を創立したものと思われる。

境内にある「豊田正治翁頌徳碑」の石碑は昭和29年に玉川全円耕地整理組合によって建てられたものである。

豊田翁は,この地塁代の名家に生まれ,学を杉浦重剛先生に受け,その思想を実践した人で,玉川村々長として,将来の郷土開発事業として玉川村全域の耕地整理,道路整備(宅地造成)に時価にして数十億の巨費と32年の才月をかけいろいろな妨害や障害をのりこえて昭和32年に完成させた。現在,旧玉川村の人々が郊外住宅地として恩恵を受けているのは翁のおかげである。なお,その石碑と並んでいるのは,この耕地整理の技師,高屋直弘氏の留魂碑である。

玉川神社の真南,等々力1-25にあった八幡社は,玉川神社の管理であったが,昭和39年玉川神社に合祀された。

拝殿の手前に、祓戸社があった。

祓戸の神様は
諸々の禍事・罪・穢を
祓ってくれる神様です
先に
「祓へ給へ清め給へ(はらえたまえきよめたまえ)」
と唱へて
身を清めてから
本社・末社を
お参りしてください

郷土開發之偉人 豐田正治翁之碑

豊田正治氏の業績については、玉川地域を読むと知ることができる。

高屋直弘翁 留魂碑

末社のこちらは、天満宮なのか、合格祈願の絵馬が下がっていた。

金運昇運と書かれては祈らずにいられない。

お稲荷さんもあった。

そして、三峯神社。

本殿に戻って反対側を見ると、石獅子の看板があった。神田明神にもあったような気がする。

石獅子(いわしし)

獅子は 子を産むと
その子を 深い谷底に投げ
落とし生き残ったものだけを
育てるという俗説から
自分の子に試練を与え
その才能をためし 立派な
人間に育てることのたとえ
として 遠き昔よりこの様な
子育ての信仰があった

右斜めから本殿を一枚。

社務所も立派な建物だ。

東京都世田谷区等々力3丁目27−7

地図などはこちら。

玉川神社 · 〒158-0082 東京都世田谷区等々力3丁目27−7
★★★★☆ · 神社
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満願寺 世田谷区 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2432 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/2432#respond Sun, 22 Mar 2020 10:53:33 +0000 https://shiteki-tokyo.kuni-naka.com/?p=2432 目黒通りを目黒方向から東急等々力駅手前まで走ると、右手に満願寺がある。立派な真言宗のお寺だ。

満願寺には公式サイトがあった。

満願寺|満願寺・等々力不動尊
東京23区で唯一の渓谷「等々力渓谷」と共にある満願寺・等々力不動尊は、1000年のときを超えて地域の皆様とともに歩んで参りました。別院である等々力不動尊は、大日如来の化身ともいわれる不動明王を祀っています。ときを忘れて、自然と調和する感覚を覚えることができます。

白壁の角に世田谷区の案内板があった。

致航山 満願寺 (新義真言宗智山派)

文明二年(一四七〇)吉良氏によって開基され、開山は定栄和尚、本尊は大日如来である。江戸時代には、御朱印寺領十三石が与えられていた。山門の額は細井広沢(こうたく)、本堂の額は広沢の子九皐(きゅうこう)の筆である。細井広沢は、元禄年中その学識をもって柳沢吉保に重用され、晩年は玉川を愛して蕉林庵玉川(ぎょくせん)と号した。当代の代表的名筆家として知られている。寺内の墓は国の史跡に指定されている。

昭和五十四年三月

世田谷区教育委員会

山門は大きなわけではないが、モダンな造り。境内の広さが遠くからも分かる。

山門の左に詳しい説明があった。こういうのは読んでもすぐにわからないので、撮って後で調べながら読むに限る。

満願寺 縁起

致航山感應院満願寺は真言宗智山派の名刹で、本尊は金剛界大日如来、開創は平安末と伝えられる。室町時代に吉良氏の世田谷城の出城、兎々呂城に祈願寺として現在地に移され中興された。山号を醫王山から致航山に改め、このときに本尊は、薬師如来から大日如来となった。

徳川幕府より寺領十三石を得、総本山に代わって仏教、密教を教え伝える灌頂道場でもあり常法談林三衣の格式を持つ寺である。

現在の山容は昭和四十五年に落成した昭和を代表する名建築。設計は現代数寄屋建築の第一人者吉田五十八氏。昭和六十二年に境内西側に講堂が完成。また客殿の北側には総檜造りの大塔が聳え静謐な宗教空間を醸し出している。大塔の本尊は胎蔵界大日如来が虚空に浮かぶ中台八葉院に安置されている。講堂の本尊は八頭の獅子座に座る一字金輪如来。

講堂の一隅には一言祈れば願いが叶うという日本三体地蔵の一言地蔵が祀られ多くの参詣者が訪れる。

境内北側には薬師如来を祀る瑠璃光院薬師堂があり東隣には玉川神社(旧熊野権現)があり明治までは満願寺が別當を勤める。

ご本堂北側には東京都史跡、江戸時代の万能の天才、細井廣澤の墓がある。山門の額「致航山」は廣澤の書。本堂の「満願寺」は廣澤の長男、九皐の書。当山には廣澤の遺品が数多く伝わる。

なお兎々呂城を「ととろき」と読むところから等々力という地名の由来という一説あり。

平成二十五年(2013)から平成の大改修を行い、本堂、客殿の大屋根をチタンに葺き替えと大塔檜皮の葺き替え創建当初の美しい姿を甦らせた。

日本全国に名前の轟く等々力不動尊は満願寺が管理し、同じくご本堂の瓦の葺き替え、舞台の改修、山門の解体修理なども終わり、大般若経六百巻の造顕し、来る令和五年(2023年)に迎える弘法大使ご生誕一二五〇年記念大聖業として境内整備を行っている。

満願寺 山主 龍樹

これが山門の額「致航山」。

これが、本堂の「満願寺」。

境内は広々としている。本堂の後ろに木があるが、境内にはほぼない。代わりに砂利が敷いてある。キリッとした感じの清浄な空気。優しい感じではない。

本堂はこのようなモダンな建物。お彼岸なので卒塔婆が並べられている。

左を見ると弘法大師一千百年御遠忌供養塔がある。

左を見ると、同じような建物だが、こちらに寺務所があるようだ。

本堂の左側には石板に彫られた普賢延命大安楽不空真実一百八臂金剛蔵王大菩薩があった。

境内の裏には、薬師如来をまつる瑠璃光院薬師堂がある。こちらはだいぶ雰囲気が違う。

本堂はそれほど古くないようだ。

基礎がコンクリートである。本堂右に案内板がある。

こちらだ。

薬師如来の浄土は東方浄瑠璃光浄土ですので
薬師如来を瑠璃光如来と稱てます そして
阿弥陀如来の西方極楽浄土とは
相對してゐるのです
薬師如来の脇士は日光菩薩月光菩薩です
亦 薬師如来の十二の誓願を具現したのが十二神将で 十二支の守護神です。
左手掌に薬壺を戴き 右手施無畏の印

南無大醫王瑠璃光薬師如来

御真言 おんころころ せんだり まとうぎ そわか

弘法大師の言葉(意譯)

大医王は薬石の在り所を知って
岩山に入りこれを採掘し路傍の
雑草や木の實も採取して生薬とし
毒も薬として治療される

寄進 賽銭箱 匿名

本堂右にあったこの玉は何だろう?とてもお金がかかっていると思うがわからない。

そして、その奥にはお地蔵さん(?)がいらっしゃる。

東京都世田谷区等々力3丁目15−1

地図などはこちら。

満願寺 · 〒158-0082 東京都世田谷区等々力3丁目15−1 満願寺
★★★★☆ · 仏教寺院
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