目黒元富士跡

中目黒駅の改札を出てから山手通りを渡り、目黒川沿いの下流に向かって左側を歩く。おしゃれなお店ばかりある。適当に右に曲がって行くと突き当たりに東京音楽大学があるので、左に曲がって歩くと目切坂に出る。

こんな看板が立っている。

目切坂(めきりざか)と旧鎌倉街道(きゅうかまくらかいどう)

目の前の坂が目切坂。江戸時代、近くに石ウスの目切りをする腕の良い石工が住んでいたことから、この名前がついたという。

この道はかつての鎌倉街道でもある。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後、変事の際に援軍が鎌倉に急行できるようにとつくられた道の一つ。

「いざ鎌倉へ」と鎧(よろい)かぶとの武者たちが馬を飛ばしたのは800年も昔の話だ。

この坂を登るのだ。道は狭いので車は下りだけの一方通行。歩道は意外と広く歩きやすい。気分のよい道なので散歩する人は多いようだ。実際、カメラを持って歩いている人に出会った。

この坂の右側は、昨年一部引っ越してきた東京音楽大学の校舎だった。途中でこんなネームプレートがあった。

とてもおしゃれな建物で、レストランは学生だけでなく一般にも開放されているようだ。このまま通路は向こう側まで通行可能のようだった。中目黒駅までの近道になる。

なんというか素敵な坂道だ。

坂を登ると、右側に看板が2枚あった。1枚は目黒区みどりの散歩道のもの。そしてもう1枚は、教育委員会が設置したもの。後ろのマンションはかなり昔からあるもので、東横線で中目黒から渋谷方面の電車に乗ると、中目黒駅から出るとすぐに左手に見える。

目黒区みどりの散歩道の看板にはこのように書かれていた。

富士信仰と元富士(もとふじ)

富士信仰が広まった江戸後期、手軽に富士登山ができるよう各地に”ミニ富士”が造られた。高さ12mの元富士もその一つ。山頂からは本物の富士山も望め大勢の人で賑わった。

そしてもう1枚は、教育委員会が設置したもの。

目黒元富士跡(めぐろもとふじあと)

上目黒1-8

江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。

富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀(まつ)るなどし、人々はこれに登って山頂の祠(ほこら)を拝みました。

マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。

この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二(もとふじ)」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。

元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は、大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。

平成22年12月

目黒区教育委員会

氷川神社には以前行った。氷川神社には浅間神社があり、石祠や講の碑があった。

上目黒氷川神社 目黒区
上目黒氷川神社は、国道246から急な石段を上がっていく。山手通りから行く時は、信号がないので、246の下をくぐって向こう側へ渡らなければならないので、少しめんどうだ。 公式サイトがあった。 かなり急な石段だ。 鳥居の横に由緒が書かれていた。...

建物の関係で、残念ながら、目黒元富士跡から富士山は見えない。ただ、往時の賑わいを感じるような雰囲気がある。散歩してみると楽しい気分になると思うな。

地図などはこちら。

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