すずめのお宿緑地公園 目黒区

以前、碑文谷八幡神社について記事を書いたが、その隣に、すずめのお宿緑地公園がある。竹林で立派な竹がたくさん生えている。

公園はそれほど広くはないけれど、中に古民家がある。

入口から入ると、太くて立派な竹だらけだ。

由来が書かれていた。

すずめのお宿緑地公園の由来

この付近は、昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住みつき、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群をなして帰ってくることからいつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。

この土地の所有者角田セイさんは、長年ここで一人暮らしをしておりましたが、「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。

その尊いご遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区が国からこれを借り受けて公園を造り、多くの人々の憩いの場として利用することができることとなったのです。

ここに「すずめのお宿緑地公園」の由来を記して、故人のご遺志に深い感謝をささげます。

昭和五十六年四月吉日

東京都目黒区

この太い竹は孟宗竹で、後述するように品川にあった島津家が江戸に持って来たそうだ。もともとは中国らしい。あちこちに竹の子を勝手に採るなと掲示されていた。

昔、山仕事をしていた時、檜の人工林に突然、竹林がでてきてびっくりしたことがあったが、あれも植林だったんだなと分かった。

竹林は根がびっちり張っているからなのか、下草がほとんどないのが特徴だ。

さて、古民家に入ってみよう。レンズの広角側が間に合わなくて、全景は撮れなかった。

上の写真の入口から入ると、広い土間があり、奥にかまどがあった。光の関係で逆から撮った。薪が燃えていた。薪が燃えるにおいは何か体の奥を刺激する。

月・火が休館日だが、それ以外の日は、季節や天気にも関係なく、毎朝薪を燃やすのだとか。もちろん、湿度調節や、煙によって建物内を「いぶす」ためである。

一つはもちろん、防虫のため。

もう一つは、床に関係がある。この床板は昔からのもので取り替えたりしていないそうだ。朽ちないで持つ。

毎日乾いたぞうきんでから拭きし、週に1回だけ濡らして拭き掃除をしているだけなのだが、黒光りしている。これは煙のおかげだ。煙でいぶすと建物が長持ちする。

畳の部屋もあった。8畳だったかな。夏の午後にここの縁側にいるとさぞかし気分がよいだろうなと思った。

とても広くて豊かなお宅だったことがわかる。古民家の話を聞くと、なぜ今の家があまり長持ちしないのかなとも思う。

バブルの頃だったか、コンクリート打ちっ放しの建物が流行ったが、今はほとんど見かけない。

囲炉裏のある広間は本当に広くて居心地がいい。

この記事の目次

古民家案内

パンフレットをもらったので転記しておく。

目黒区は、現在ほとんどが市街地になっていますが、昭和初期頃までは『たけのこ』の特産地として知られた農村地帯でした。

このかつての農村目黒の雰囲気をわずかに伝えているのが古い民家です。『目黒区古民家(こみんか)』もその一つで、もとは緑が丘1丁目の栗山重治さんの旧宅であったものですが、昭和54年に区に寄贈され、竹林の美しい「すずめのお宿緑地公園」内に移築復元されたものです。

栗山家は旧衾(ふすま)村(ほぼ現在の環七通り西側)の旧家で、江戸時代には代々「年寄(としより)」という村の重要な役職を務めた家柄で、屋敷は普通の農家より規模も大きく、一般には禁じられていた「長屋門(ながやもん)」を前面に配し、うっそうとした屋敷林におおわれた格式の高いものでした。

この古民家が建てられた年代については、安政4(1857)年に大きな改築が行われたとの記録があることや、大黒柱を含めた軸組の構法、南側の外縁などに見られる建築様式から、江戸時代中期と推測されています。

構造の形式は、桁行(けたゆき)7.5間(けん)(約13.6m)・梁間(はりま)5間(約9.2m)・広間型平面・寄棟造というもので、移築の際、法規制によって、元は茅葺(かやぶき)であった屋根を茅葺形の銅板葺にしたほかは、ほぼ往時の姿のとおり復元しています。

「長屋門」は現在解体・保存されています。

古民家内部の諸道具は必ずしもこの家にあったものではありませんが、当時の生活をしのんでいただくために陳列してあるものです。

古民家公開時間

古民家の公開時間は、夕方少し前までなのでご注意下さい。

公開時間:午前9時30分~午後3時30分

休館日:月曜日・火曜日(ただし、祝日は公開。両日とも祝日の場合は翌日が休館)
12月28日~1月4日

目黒はタケノコの産地だった

江戸東京野菜 物語篇を読むと、江戸時代に東京でタケノコ栽培が始まったことが書かれていました。

薩摩とタケノコ

孟宗竹の伝来には諸説がある。孟宗竹は中国江南地方が原産で、元文元年(1736)に、薩摩藩の四代藩主であった島津吉貴が長男に家督を譲ったあと、琉球国経由で中国から輸入し磯別邸(現・鹿児島市内)に移植している。

八代藩主・島津重豪は宝暦年間(1751~64)、国元から鉢植えにして取り寄せ、将軍家に献上し、江戸城内吹上御苑に植えられた。

同じ頃、三田の薩摩藩上屋敷(現・港区芝2丁目)にも移植されている。

「武江年表」に、「安永八年(1779)薩州候品川の前邸へ琉球産の笋を始めて植らる、諸人これを珍賞す。世に孟宗笋と称す」とある。

これは、薩摩藩上屋敷の竹を初めて品川の下屋敷に移植したものと考えられる。後に繁茂した竹林に人々は目を見張ったという。

江戸鉄砲州で幕府御用の回船問屋(現在の海運業)をしていた山路治郎兵衛勝孝は安永年間(1772~81)、平塚村戸越(現・品川区)に別邸を設けたが、同地には特産物がないところだった。

所用で薩摩藩邸に伺った折、竹林の見事さと、馳走になったタケノコ料理のおいしさから、タケノコを農家に栽培させれば農家の生活も楽になるだろうと、寛政元年(1789)には薩摩から種竹を一株銀一朱あてで数株を取り寄せ、別邸近くの平塚村で栽培が始まっている。

重豪が献上して江戸城の吹上御苑に植えられた孟宗竹も、繁茂する竹の見事さと竹林の景観が見る人を引き付けたようだ。御三郷の田安家では根分けをしてもらい、四ッ谷大木戸の西側にある下屋敷(現・新宿区新宿1丁目)に植えている。

江戸城から出た孟宗竹はその後、植木屋などの手によって、庭園の観賞用としても各地に広がっていく。

今日これら大名屋敷の竹林の多くは、屋敷とともに消えてしまったが、皇居吹上の森の一角には今も、忘れられたかのように残る竹林がその歴史を伝えている。

孟宗竹のタケノコに江戸っ子が注目

山路治郎兵衛勝孝によって始まったタケノコ栽培は、地味や気候にも合っていたのか、地下茎もよく伸びた。山路は、真竹のタケノコしか知らない江戸っ子に、孟宗竹の大きなタケノコを知らせようと、一計を案じた。

自宅近くで栽培していた桐を製剤して箱をつくり、タケノコをおさめて馬に積んだり、竹製のかごにタケノコを入れ、馬の背に4つに振り分けて積むなど、人目をひくような荷造りにも注意を払い、神田多町の青物問屋・紀伊國屋に出荷したという。

そのうちタケノコの食感は人々の舌を捕らえ、年ごとに消費は拡大していった。

栽培技術も向上し、初物好きの江戸っ子向けに促成栽培もおこなわれるようになるが、幕府による天保の改革(1841)では、タケノコも早出し禁止令に書き込まれている。

昭和4年(1929)の書物『實地目黒式孟宗筍栽培法』(阿部元作著)によると、「根埋(ねいけ)」と呼ばれる作業が大きな特徴で、地表に現れようとする鞭根(べんこん)を残らず掘り起こし、悪いものを取り除くとともに、よいものだけを肥料と一緒に埋め戻す。

これは根と根が錯綜するのを防ぐばかりか、根の位置を整え、さらに土をやわらかく耕すことになるため、品質の揃ったタケノコをたくさん生産するのに欠かせない。

この面倒な作業は、7月中旬から10月末まで農作業の合間、3~4回もおこなう。

その後、産地は品川から目黒、世田谷に拡大していく。江戸から東京にかけての時代、特に”目黒のタケノコ”は有名になった。

東京都目黒区碑文谷3丁目11−22

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公園目黒区
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