目黒不動尊から山手通りに出るまでの途中、海福寺がある。右側の柱には、禅宗と書かれているが、左側には、黄檗宗(おうばくしゅう)と書かれている。
多分、このお寺には入ってみたことはない。行ってみよう。
黄檗宗(おうばくしゅう)とは初めて聞いたので、調べてみるとウイキペディアにあった。
黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本の三禅宗のうち、江戸時代に始まった一宗派。江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592 – 1673年)を開祖とする。本山は、隠元の開いた京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺
江戸時代に明から来られた隠元隆琦(いんげんりゅうき)によって始められた宗派だそうだ。
海福寺
明から来朝した隠元隆琦(いんげんりゅうき)が万治元年(1658)に江戸深川に開創した黄檗宗(おうばくしゅう)の寺でしたが、明治43年(1910)に現在地へ移転しました。
本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木像阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。
木像阿弥陀如来立像は彫刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で制作されたものと考えられ、都内に現存している稀少な例です。
山門の赤い四脚門(よつあしもん 区指定文化財)は明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)から移建されたものです。
山門左手前の「文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、文化四年(1807)の深川冨岡八幡大祭の時に起こった、永代橋崩落事件の死者供養のために建てられたものです。
また境内の梵鐘(都指定文化財)は天和3年(1683)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の作で、中国の鐘の形式に似ながら、日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品です。
平成21年3月
目黒区教育委員会
このあたりにあるお寺は目黒不動尊と同じように崖の上に建てられているようだ。ちなみにこのあたりは目黒区でも土地の標高が低い方だと思う。目黒川が近い。
山門を見上げる感じになる。あれ、なんか雰囲気が違うなあ。
このときはまだ説明を詳しく読んでいないので、山門がなんとなく竜宮城を思わせるような、中国風の変わった感じだと思っていた。
山門の横に説明があった。
海福寺四脚門(よつあしもん)
目黒区有形指定文化財 建造物
昭和五十九年三月三十一日 指定
海福寺四脚門は明治後期新宿区上落合の泰雲寺(現在は廃寺)にあったものを移建したものであるが、その後の長い年月の間に海福寺境内や周辺の環境によく調和しており、落ち着きのある景観をうみだす重要な建物として定着している。
また、四脚門は中央にある親柱二本とその前後に二本ずつある四本の控柱からきた名称で日本建築の代表的な門の形式であり当四脚門はその細部絵様の様式において、江戸時代中期の特質を備える貴重なものである。
昭和五十九年八月
東京都目黒区教育委員会
境内に入ると、すぐ右に鐘がある。境内は小さいのだが、鐘はとても立派だ。
鐘の横にも説明書きがあった。
東京都指定有形文化財の梵鐘
天和二年に当時深川にあった海福寺が全焼し梵鐘も灰燼に帰しました。時の仕職独本が新鋳し、黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖隠元大師の新鋳を祝した銘が刻まれています。
裾の雲形の柔い線は、我国伝統の様式に中国風の柔か味を工夫した他に類例のない逸品です。
確かになんとなく馴染んでいる鐘の意匠とは違う感じがする。
本堂に向かって1枚。このお寺さんには池がなかった。左の寺務所兼(多分)お住まいは洋風のきれいな建物。
本堂でごあいさつさせていただいた。
なんと、青梅が鈴なりに実っているのだ。いつもこんなに早かったっけ?4月の29日である。
この塔は由緒があるもの。
武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられる九層の塔(江戸名所図絵より)
山門から下に向かって1枚。高低差が結構ある。
地図などはこちらからどうぞ。
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