大円寺 目黒区

目黒駅から権之助坂ではなく、隣の坂を下りる。その坂が行人坂だ。かなりの急坂で下には目黒雅叙園がある。

もう15年以上前のことだが、行人坂を下から自転車で登っていたら後輪のスポークが1本折れて走行不能になったことがあった。ガシガシ踏み込んで登っていたので、後輪がたわんだのだろう。

行人坂の途中に大円寺がある。

行人坂は道は狭いが、人通りが多い。そのため、境内はなかなか賑やかだ。見ていると、山門から中に入らず本堂に手をあわせて通過して行く人も結構いた。

境内は広くはないが狭くもない。

山門横に説明の看板があった。

大円寺(だいえんじ 天台宗)

下目黒1-8-5

この寺は「松林山 大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切りひらき、大日金輪を祀って祈願(いのり)の道場を開いたのがその始まりと伝えられています。

本寺には、”生身の釈迦如来”と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)、木造「十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。

明和9年2月(1772)、本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために建てられた「釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀三尊像」(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。

境内には「行人坂敷石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。

江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。

平成3年3月

目黒区教育委員会

写真では切れてしまったがこんな立派な石も山門横に置かれている。松林山大圓寺と彫られている。

山門を入った正面が本堂だ。逆光だったので屋根まで写せなかった。賽銭を入れて、ご挨拶をさせていただいた。心なしか頭が気持ちよかったような気がする。

本堂の左には、釈迦如来立像がある。先ほどの看板には”生身の釈迦如来”と書かれていた像のことだ。

今はこの通り戸が閉まっていて公開されていない。次回のご開帳は3月22日と書かれていた。

左手にまた説明の看板があった。なぜ”生身の釈迦如来”と呼ばれるのかわからないが、1193年に彫られた像なのだそうだ。

釈迦如来立像(国・重要文化財)

本尊は京都嵯峨の清涼寺に伝わる釈迦如来立像を模して作られた像です。原像である清涼寺の本尊(国宝)は、東大寺の僧が寛和2年(九八六)に中国から請来したもので、請来当初から摂関藤原兼家以下の朝野の尊崇を集め、やがて多くの模刻が作られました。

現在こうした清涼寺式の違例は各地に数多くありますが、その中でも大円寺の像は、嵯峨の原像に相似し、よくその趣を伝えています。

両耳孔には水晶珠をはめ込み、頸際まできっちりとつけた衣には、同心円状の衣文を刻み、各衣紋に沿って截金線が入っているなど他の像に比べて全てが細かに模されています。

昭和32年(一九五七)に行われた解体修理の際、胎内から白銅製の菊花双雀鏡、女性の髪、紙片、木札などが発見され、それらに書かれた陰刻や墨書から建久4年(一一九三)に制作されたとされます。

原像に勝るとも劣らない巧みな刀技で、四肢、五体の均衡に至ってはより自然味を増した優品であるとともに、制作年代もはっきりした貴重な文化財です。

ばく(梵字)釈迦如来(しゃかにょらい)ご真言(しんごん)

おん。さるばしちけい。びしゅだらに。そわか。

その横、本堂の左側にはこのお寺の特徴である大円寺石仏群がある。520体あるそうだ。明和9年(1772)、行人坂の火事と呼ばれた江戸の大火事があり、その火元と見られたのが大円寺だった。

この火事で亡くなった人々を供養するために建立されたと説明があった。

さらに、本堂の右には、薬師如来があり、寺務所で金箔を買って貼ることができる。

後ろをふり返ると、また、なにやら説明が書かれた看板があり、その横の石柱がとても古そうだ。

看板があるのは、何か知ってほしいというメッセージだ。区指定の文化財だ。行人坂が昔、石を敷いて歩きやすくしたとある。施主の西運の名前は、これからまた出てくる。

行人坂敷石造道供養碑(区指定文化財)

大円寺境内

この供養碑は高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク.(阿弥陀)サ.(観音)サク.(勢至)が刻まれています。

下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊や浅草観音に参詣し、通りがかりの人々から報酬を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。

施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です。

平成3年3月

目黒区教育委員会

行人坂は、特に目黒駅前からの下り初めが急坂である。これが土だと雨が降るたびに流れるから崩れやすくなる。

さらに本堂の右には、八百やお七と吉三(西運)を説明する看板があり、これは石碑なのかお墓なのか?

先ほど出て来た西運は、八百やお七の恋人だった。

八百やお七の話は何となく知っていたが、このあたり(目黒)の話だったのだろうか?このときはその程度のことを思っただけだ。

看板をよく読めば理由がわかる。お七の恋人吉三が剃髪し、西運と名を変えてお七を弔うために1万日の念仏行をしていたのだ。千日じゃなくて1万日というのがすごい。10000/365≓27年以上だ。すごいね。

八百やお七と吉三(西運)

江戸時代、本郷駒込町に住む八百屋の娘お七は、天和2年(一六八二)の火事の際、避難のためしばらくの間近くの円林寺に仮住まいしており、そのときに寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三が一八才でした。

しかし、短い避難生活のことやがて離れ離れになって、お七は吉三に会いたさゆえに乱心し、自宅に火を放ったのです。大事には至らなかったものの、当時は放火は火あぶりの大罪。お七は江戸中引き廻しの上、大井・鈴ヶ森の処刑場で火刑に処せられました。

その後、恋人吉三は剃髪し、西運と名を改めて、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼を行脚しました。その後、江戸に戻った西運は、大円寺の坂下にあった明王院(現ホテル雅叙園東京)に阿弥陀仏三尊仏を祀り、身を寄せながら隔夜日参一万日という念仏行を始めました。

浅草寺までの道のりを雨の日も雪の日も休むことなく、鉦をたたき念仏を唱えながら、一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げました。その夜、お七が夢枕に立って成仏したことを告げたのですが、そのお姿が今現在も阿弥陀堂に祀られているお七地蔵になります。

西運は集まった浄財で行人坂の石畳を直し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、社会活動の数々を行いました。そのことを伝える当時の石碑があり、現在文化財指定となり、寺に伝えられています。

か(梵字)地蔵菩薩(じぞうぼさつ)ご真言(しんごん)

おん。かかか。びさんまえい。そわか。

都会のお寺らしい風景。境内から目黒駅前に建った高層マンションが見える。

そして、山門を出ると道を挟んだ向こうはホリプロだった。

東京都目黒区下目黒1丁目8−5

地図などはこちら。

大圓寺
★★★★☆ · 仏教寺院 · 下目黒1丁目8−5

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