最近、目黒通りを走ることがなくなった。以前は、よく走っていて、目黒通りから山手通りを走って、中目黒まで行ったものだ。山手通りは道が広くて走りやすい。
途中に、ラーメン二郎目黒店があるので、たまに寄ったりしたが、それはもう15年以上前のことだ。もうとっくに二郎のラーメンは食べてはいけない年齢になった。
大鳥神社は、目黒通りと山手通りの交差点にある比較的小さな神社だ。大鳥神社に寄るのは、一体いつ以来だろう?
山手通り側から入る。きっとこちらが正面になるんだろう。
まずはご挨拶させていただく。山手通りと目黒通りが交差している場所なので、交通量がかなり多い。とても静かとはいえないが、境内は清浄な感じがする。
外から見た感じと実際に境内に入ってから受ける感じはかなり違う。
祭神の看板がかかっていた。これは御由緒を読んでください。
御由緒があったので1枚撮った。
こんなことが書かれていた。
大鳥神社御由緒
御祭神 主祭神 日本武尊
やまとたけるのみこと景行(けいこう)天皇の皇子で、熊襲(くまそ)討伐、東国の蝦夷を平定。 相殿神
あいどののかみ国常立尊
くにのとこたちのみこと日本の国開きの神様 弟橘媛命
おとたちばなひめのみこと日本武尊の妃 御由緒(ゆいしょ) 例祭 九月九日に近い日曜日
景行(けいこう)天皇の御代(七一~一三〇)当所に国常立尊を祀った社(やしろ)がありました。
景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲(くまそ)を討ち、その後、東国の蝦夷(えみし)を平定しました。
この東夷征伐(とういせいとう)の折、当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神(めくらがみ)と称え、手近に持って居られた十握剣(とつかのつるぎ)を当社に献って神恩に感謝されました。
この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっております。
東征の後、近江伊吹山(いぶきやま)の妖賊を討伐になられましたが、病を得て薨(こう)ぜられました。
日本書紀に「尊の亡骸(なきがら)を伊勢の能褒野(のぼの)に葬したところ、その陵(みささぎ)より尊の霊(みたま)が大きな白鳥(しらとり)となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原(ことひきのはら)、河内(かわち)の舊市邑(ふるいちむら)に留り、その後天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神(とりみょうじん)と申すわけです。
当社の社伝によると、「尊の霊(みたま)が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神(とりみょうじん)として祀る」とあり、大同元年(八〇六)社殿が造営されました。
当社の社紋(しゃもん)が鳳凰(ほうおう)の紋を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
酉の市(八つ頭と熊手の由来)
当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の市」に行われるのは、尊の熊襲征伐の出発日が酉(とり)の日だった為その日を祭日としました。
酉の日の当日、ご神前に幣帛(へいはく)として「八(や)つ頭(がしら)」と「熊手」を奉納します。
「八つ頭」は尊が東征の時、八族(はちぞく)の各頭目(とうもく)を平定された御功業を具象化(ぐしょうか)したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討ちに遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火(むかえび)をもって賊を平らげ、九死に一生を得たことを偲び奉るためのものです。
ここから、古来より、「八つ頭」は人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。
大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁盛開運招福の神様として多くの人たちの信仰を集めております。
また、酉の日当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。
熊襲(くまそ)とは久しぶりに聞いた。昔、ビール会社の社長が東北地方に対して熊襲(くまそ)発言をしてボイコットされたことがあったなと思い出した。
左の狛犬さんは、何を抱いているのだろう?
右の狛犬さんは、子どもを抱いているみたいだ。
見づらいと思うが、都天然記念物大鳥神社のオオアカガシの碑である。
後できちんと書けるように看板は必ず撮るようにしている。
東京都天然記念物
大鳥神社(おおとりじんじゃ)のオオアカガシ
所在地 目黒区下目黒三の一の二
指定 昭和三八年三月一九日
指定解除 平成二四年三月二一日大鳥神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく、薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシより太く長く、苞や果実も大きいという特徴からアカガシの変種とみなされました。
新変種命名の基準となった本樹は、学術上貴重な樹木として、昭和三八年に東京都の天然記念物に指定されました。
本樹の枝葉は、現在でもオオアカガシCyclobalnopsis acuta (Thunb.) Oerst. var. megaphylla Hayashi, var. nov.のタイプ標本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。
指定時に樹高約一六メートル、幹周り一・六メートルあった本樹は、生育環境の変化等により昭和五〇年代初め頃から樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが、平成一四年枯死が確認されました。
また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みましたが、成功せず、平成二四年に指定解除になりました。
ここに説明板を設置し、都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。
平成二四年三月 建設
東京都教育委員会
どこにオオアカガシがあるのかなと思ったが、残念ながら過去のものになっていた。その下にある切支丹灯籠の看板にはこのように書かれていた。
切支丹灯籠(きりしたんとうろう)
下目黒の大鳥神社所蔵で、昭和38年、守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示していたものです。
もとは千代ヶ崎(ちよがさき 現在の東京都教職員研修センター付近)の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前(ひぜん)島原藩主松平主殿守(まつだいらとのものかみ)の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。
竿石(さおいし)の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装(ぎそう)した珍しい型の切支丹灯籠(きりしたんとうろう)で、キリシタンへの弾圧(だんあつ)と迫害(はくがい)が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられます。
目黒区教育委員会による看板もあった。
大鳥神社
下目黒3-1-2
この神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806)創建された区内最古の神社です。
江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に書かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもありました。
祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)を主神とし、国常立尊(くにとこたちのみこと)と弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)を合祀しています。
毎年11月に開かれる酉(とり)の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在でも都内では有数の賑わいをみせています。
この市のいわれは日本書紀に「十月己酉(つちのととり)に日本武尊を遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊(みこと)の出発日が酉(とり)の日であったことから、おこったと伝えられています。
毎年9月の例大祭には、目黒通りに大小30余基の町みこしが勢揃いします。それとともに社殿では「太々(だいだい)神楽・剣の舞」が奉納されます。
11月の酉の市には、「太々(だいだい)神楽・熊手の舞」が神前で舞われます。
境内には、東京都の天然記念物に指定された「オオアカガシ」の老木や三猿だけの延宝塔、元禄時代(1688~1703)や宝永年間(1704~1710)の屋根付庚申塔(やねつきこうしんとう)など5基の石造物もあります。
また、俗に切支丹灯籠(きりしたんとうろう)といわれる「織部式灯籠(おりべしきとうろう)」や、天保6年(1835)の酉(とり)の市に神楽を奉納した記念碑などもあります。
平成7年3月
目黒区教育委員会
休日のわりと朝早い時間に行ったのだが、参拝する人が途切れない感じで来る。
案内板はいろいろある。
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