上目黒氷川神社は、国道246から急な石段を上がっていく。山手通りから行く時は、信号がないので、246の下をくぐって向こう側へ渡らなければならないので、少しめんどうだ。
公式サイトがあった。
かなり急な石段だ。
鳥居の横に由緒が書かれていた。
氷川神社(ひかわじんじゃ)
大橋2-16-21
祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)主神とし、天照大神(あまてらすおおみかみ)、菅原道真(すがわらのみちざね)を合祀しています。
旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573~1592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。
正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。
境内には花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。また、石段の下には「武州荏原(えばら)郡菅刈(すげかり)荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道への道標があります。
大山道は江戸時代、石尊参(せきぞんまい)り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
境内には、目切坂(めきりさか)上(現、上目黒1-8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。
平成22年3月
目黒区教育委員会
石段を上るとすぐに本殿がある。暗く写っているのは日差しが強すぎて絞ったからで、実際は明るい境内だ。
交通量の多い246のすぐ上にあるから、静かとはいえない。クルマやバイクの音が周囲の建物にはね返って聞こえて来るが、でも、境内は清浄な感じがする。
近づいて一枚。
ここにも御由緒があった。
御由緒
天正年間(一五七三頃)に武田家臣の加藤家が上野原より産土大神をこの地に向かえたと言われております。古くから目黒川の氾濫・疫病を鎮め広く悪疫退散の神様として親しまれております
ご祭神の一柱の菅原道真公をお祀りする北野神社は青葉台一丁目一八番二号に鎮座しております。
阿(あ)の狛犬さん。
吽(うん)の狛犬さん。
パンフレットがあったので一部いただいてきた。
目黒富士もあった。
目黒富士(めぐろふじ)
大橋2-16-21
江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が各地で作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。
目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化9年(1812)に目切坂(めぎりさか)上(上目黒1-8)に築かれたもので「元富士」と呼び、後に別所坂(べっしょざか)上(中目黒2-1)に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。
元富士は高さ12mで石祠(浅間神社)を祀っていましたが、明治11年(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑を移しました。
昭和52年(1977)7月に富士山に見たてた登山道を開き、境内の一角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。
7月1日には山開きの例祭が行われています。
平成22年3月
目黒区教育委員会
浅間神社である。
ここにも御由緒の看板が立っていた。
御由緒
江戸時代に富士山信仰が盛んになり富士塚を登り浅間神社をお参りすることで富士山を登拝したこととしました
当浅間神社は上目黒一丁目の目切坂にあった元富士を明治十一年に氷川神社境内に遷したものです
これが元富士の祠のようだ。
この富士山の形をした石が富士講の碑らしい。文字が彫られているが、薄くなっていて読めない。
目黒元富士跡にも行ったので、詳しくはこちらの記事を。
社務所と手水舎。この境内も大木が数本ある。
本殿の左には、稲荷神社がある。
御由緒があったので読んでみた。
ご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神だそうだ。
御由緒
創建は不詳だが昔よりこの山を稲荷山と呼ぶことがあったことから氷川神社よりも創建が古いと言われております
現在では産業の神様と崇敬され三月の午の日に初午祭を斎行しております
東京都目黒区大橋2丁目16−21
コメント