中目黒駅を降りて、山手通りを渡って右に。昔からあってお花見時には満員になる大樽側に出てたら、大樽の横の道を東横線に沿って歩き、東横線下を通る道のところで右に曲がると、駒沢通りの下を抜けるトンネルがある。
そこを抜けて、そのまま直進すると、目黒学院中高校が左に出てくるがそれが目印だ。突き当たりまで行くと、左に登る坂道がある。車の通り抜けはできないという看板があるので注意が必要だ。
その坂は、別所坂と呼ばれている。かなりきつい坂だ。一番急なところを登ってふり返ったところ。
最後に登り切ると、庚申塔があり、そこから右に曲がると新富士の看板があった。
看板にはこのように書かれていた。
目黒の”新富士”と新富士遺跡
この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ、江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造。目切坂上の目黒”元富士”に対し、こちらは”新富士”の名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった。
平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺溝が発見された。遺溝の奥からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。
調査の結果、遺溝は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。
さらに、日中開放されている通路を通ると、別所坂 児童遊園に抜けることができる。ここは眺めがよい。中目黒駅近くの高層マンションが正面に見える。富士山はこの方向ではないな。
公園内にはまた看板がある。
看板を読んでみる。
新富士
中目黒2-1
江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつくられ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。
この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。
この新富士は文政2(1819)年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴雑記』)と書かれるほどであった。
新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙法蓮華経」(「文政二己卯年六月建立」とある)・「小御嶽」・「吉日戌辰」など銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
平成18年10月
目黒区教育委員会
これがその石碑だが、残念ながら南無妙法蓮華経の一部が読める程度だった。
この公園は眺望がよくて気分がよいところだ。
地図などはこちら。
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