駒留八幡神社 世田谷区

常盤塚から少し走ると駒留八幡神社へ出た。環七の隣だ。高い木があるが、全体的に木が少ないので、少し神社特有の水気というか湿気が足りない雰囲気がある。

鳥居をくぐって右を見ると案内板があった。

駒留八幡神社(若宮八幡)

祭神は天照大神、応神天皇。北条左近太郎入道成願は、当時この地の領主で、あつく八幡大神を崇敬し、徳治三年(一三〇八)社殿を造営し、経筒を納め駒留八幡とあがめたてまつった。

その後世田谷城主吉良頼康は、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称した。また、その母常盤を弁財天として祀ったのが、厳島神社である。

昭和五十三年三月
世田谷教育委員会

駒留八幡神社は、鎌倉時代にできた神社のようだ。そこに、吉良賴康が常盤とその子供を祀ったんだね。

石段を上がった右が手水舎だ。

左の狛犬さん。

右の狛犬さん。

右奥に社務所がある。手前は神楽殿か。

さて、ご挨拶させていただこう。鈴がたくさんぶら下がっているのは、参拝する人が多いのかもしれない。

せたがや社寺と史跡(その一)より。

駒留八幡神社(若宮八幡)

祭神は天照大神,応神天皇,その神像の背部に「最明寺時賴公守本尊,経塚駒留八幡宮北条左近太郎入道成願奉安鎮所,徳治三戊申年十月二十三日」と記した銅板が立ててある。これは北条相模守時賴朝臣尊崇の霊像で,神体は1寸5分,左手に弓を持ち岩上に立った姿である。

当社の創建は不詳であるが,天和2年(1682)この地の領主大久保忠誠が当社を修造の時、経塚という地から一壺を発見した。その中に紫銅の経筒があり,徳治3年北条左近太郎入道成願,沙弥見仏などの名があり,その中から神体が現われ,もう一つの経筒には,法華経6部を書写し,また一千部を読誦することが銘記されていた。

忠誠は当社修造落成の日,新たに法華経6部を書写して経筒に納め,社の礎下に埋蔵し,駿河国建穂寺の僧隆範をして,遷宮の式を執行せしめたという。

吉良頼康はその子の追福のために,八幡宮に一社相殿として祀り,若宮八幡と称し,供米田を寄進し,家内繁栄を祈願したと伝え,その母の常盤も神前の池の中島へ弁財天として祀ったのが厳島神社である。

慶長14年(1609)以来上馬引沢村は大久保氏の領地となり,代々この社を上馬の鎮守とあがめ,天和2年(1682)に鳥居額を奉納した。

寛政11年(1799)大久保伊賀守藤原忠雄は,社殿,厨子を修復寄進し,幣帛料として田地3反5畝を奉納した。明治40年8月に駒留八幡宮と改称された。

国学者高田与清の「世田谷紀行」には,近くの稲荷社に鞍掛松あり,左近太郎が鞍を掛けた機であったが,30年ほど前に枯れてしまったと記している。

徳治3年とは、上で書いたように1308年であるから鎌倉時代だ。この説明だと時代が少し前後しているが、壺に書いたお経を納めて埋めている話が書かれていて興味深い。

常盤は、弁財天として厳島神社に祀られているとある。

境内には数本だが背の高い大木がある。クロマツのようだ。広角側でも入らない。

本殿の左後方に、また鳥居がある。

ここに常盤を祀った厳島神社があった。

ちなみにその横には常盤橋の石碑があった。

こちらもせたがや社寺と史跡(その一)より。常盤を祀った意味がわかる。

常盤塚

戦国の頃,世田谷城主吉良賴康が等々力野良田(現,玉川中町)に鷹狩をした雪の朝,奥沢の田で鷺を捕らえたところ,その足に一首の短冊がつけてあった。これには女性の筆蹟で和歌が記してあった。

さっそく侍臣の橋本天王丸に命じて探させたところ,それは家臣の奥沢城主大平出羽守の女常盤であった。かくして常盤は側室として召され寵愛されたが,他の側室たちの嫉妬を受けて讒言された。賴康はこれをいたく憤り,常盤も御殿を脱出するが,中郷(世田谷区上馬)の野でついに自害して果てる。

しかし,その刃の下から生れた子供の胞衣に吉良氏の五七の桐の紋が現われた。賴康の実子と判明する。怨霊のために城の内外が鳴動したが,結局若君を祀って若宮八幡とし,常盤を田中弁天と崇めるにいたった。このことは「名残常盤記」に詳しい(留八幡神社の項参照)。

常盤塚は常盤を葬った所で,その墳墓の上に松を植え、これを常盤の松と称し,近くの小川の橋を常盤橋と称したが,今その橋名を刻した石が駒留八幡神社に移されている。

常盤をねたんだ側室たちは,やがて常盤の死により,その罪状が明らかとなり,若林の辺りへ引き出され,ことごとく死刑に処せられた。常盤の塚をはじめ,若林より駒留八幡神社のほとりまで13ヶ所の塚を築き,そこに葬られた,いまもその辺を十三塚と伝えるが,その跡は明らかではない。この塚より婦人の手道具類を掘り出したと伝えている。

「江戸名所図会」には,「按に,北はしより二十歩ばかり東の方,道より北側に松を植えたる塚あり,是を常盤の墓と云,上に不動の石像あり,又同じ南の方にも塚あり,是なりといへど,いづれが実ならん」と記している。

現在は塚上に常盤社が祀られている。また「二子街道中馬牽沢村世田ヶ谷入口,三軒茶屋の往還角の所より向へ三町計入て,小溝に渡す石橋をしか(常盤橋)名づく」ともある。

「江戸砂子」によれば,「瘧を病む者が常盤橋の辺りに甘酒を供ふると忽ち治る」と伝えている。

瘧(おこり):間欠的に発熱し、悪寒(おかん)や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。(出典

国会図書館デジタルコレクションの江戸名所図会から常盤橋。

常盤橋

この神社の一番の特徴は、拝殿から続くこの建物だ。意味なくこんな建て方をするわけがないから、この小山というか塚?を大切に祀っているのかもしれない。こういうのは説明があった方がよいと思った。

東京都世田谷区上馬5丁目35−3

地図などはこちら。

駒留八幡神社 · 〒154-0011 東京都世田谷区上馬5丁目35−3
★★★★☆ · 神社
世田谷区寺社
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