三軒茶屋から世田谷通りを走り、環七を越えるとすぐにこんな案内板がある。なにか紹介されるだけのことがあるのだろうか?行ってみよう。
世田谷通りから左に細い道を走るとすぐに常盤塚がある。世田谷区の案内板があった。塚というから最初は古墳かなと思ったのだが、全然違う。
世田谷区指定史跡(塚)
常盤塚(ときわづか)
所在地 世田谷区上馬五丁目三十番十九号
指定 昭和五十八年十一月十二日世田谷城主吉良賴康(永禄四年・一五六一年没とされる)の側室で、奥沢城主大平出羽守の女(むすめ)常盤を埋葬した塚とされる。
伝承によれば、賴康の寵を一身にあつめた常盤は、他の側室にそねまれ、城を逃れたが、この近くで殺害されてここに葬られた。
後に訴えが虚偽であることを知った賴康は、これを悔み、駒留八幡神社に、常盤を弁財天として、常盤の胎児を若宮八幡としてまつり、また虚偽の訴えをした側室十二人を処刑した。
人々は、常盤塚と十二人の側室の塚を「十三塚」と呼び信仰の対象としてきたが現存するものはこの常盤塚だけである。
昭和六十年三月
世田谷区教育委員会
広いスペースではないが、きれいに掃除され、花も飾られているのが見える。
右を見ると石碑があった。文字が小さいので、こういう時は撮ってあとでゆっくり読むに限る。
伝承史跡常盤塚
薄幸の佳人常盤の方ここに眠る
天文動乱の昔 南関東の覇者世田谷城主七代吉良賴康は重臣奥沢城主大平出羽守の息女常盤の方をこの上なく寵愛していたが他の側室達の讒訴を信じてゆくりなくこれを退けんとした
常盤の方は早くもこれを察知して城を脱出したが到底逃れかたきを悟り
君おきて仇し心はなけれども
浮き名とる川 沈みはてけり窈窕美麗たぐいなしとうたわれ鷺草にも比すべき麗人も無実を訴えたこの悲痛な辞世を残してあわれ十九才の花の命を胎内の若子諸共に田の面の露と消えはてたのである
後にこれは冤罪であることが明らかとなり賴康は後悔のほぞをかみ 遂に八幡の旧地に若子を相殿として祀る 駒留八幡がこれである
時人また非業の最期を遂げた常盤の方を憐みこの地に一塚を築き語りつきいゝ伝え 連綿としてこれを守り続けたか年月の久しき 今は顧みるものも少く塚も朽ち果てゝ見るかげもない
有志これを憂い相謀って資を募りこれを復興してその霊の鎮まらんことを祈るものである
春風秋雨四百余年 歴史をこえた伝承の息吹がこゝに生きている心地がするのである
願わくは常盤の霊よ 安かれ
昭和五十八年十一月吉日
常盤塚顕彰協賛会代表 下山新二
世田谷老人大学講師 風間幸二郎撰文 木村紫水書
私もご挨拶した。
いつの時代も、トラブルの原因は変わらないものだ。次は、駒留神社へ。
東京都世田谷区上馬5丁目30−19
地図などはこちら。
コメント