駒沢公園の弓道場の前にローソンがあるが、そこから始まる駒八通りを走ると、目黒通りを越え、環八を越えると国分寺崖線の崖になるが、その下り坂の途中に宇佐神社はある。最寄りの駅は、東急尾山台駅だ。
駒八通りを走るのも、宇佐神社に来るのも初めてだ。道からわりと小さい鳥居をくぐって石段を上るまで意外と距離がある。
境内はこんな感じだ。大きくないがきれいに手入れされている。奥が森になっている。左が神楽殿、右が社務所と住居。
森はグーグルマップで拡大していくと、八幡塚古墳と書かれていた。鳥居ではなく、少し上の神社の駐車場から入ると、途中で立入禁止のコーンが立っているので入ることはできない。
手水舎もこぢんまりしていた。
神楽殿がずいぶんと大きい。
本殿もかわいい。
左の狛犬さん。
右の狛犬さん。
そして本殿。扁額はかかっていなかった。
せたがや寺社と史跡(その二)にはこのように書かれていた。
宇佐神社
祭神は応神天皇で,例祭は9月23日,境内末社として稲荷神社(倉稲魂命)御嶽神社(大己貴命・日本武之命・少名彦名之命)を祀る。村内に散在したものを明治年間に合祀したものである。
神殿には狐塚から発掘した刀・土器片などを奉納してあるという。
『新編武蔵国風土記稿』によると,「除地二段,村ノ中央宇根通リノ内ニアリ,社九尺二二間,南向,中ニ又宮作リノ社アリ,前ニ鳥居ヲタツ,両柱ノ間七尺,元禄十二年ノ夏,七世精蓮社進誉貞悦ノ時再造セシトミエテ,ソノ時ノ棟札アリ,祭礼九月二十三日ニ行フ,伝乗寺持ナリ,注連引松二株アリ,向ヒテ鳥居ノ右ニアリ,囲尺一丈六七尺モ有ベシ,末社稲荷社向テ右ニアリ,上屋一間ニ一間半,神明社末社ヨリ東北ノ角ノ山ニアリ,南向ナリ」とある。
『新編武蔵国風土記稿』に,大塚・宇堂ノ上ニアリ,事跡ツマビラカナラズ」とあるものであろう。かつてこれを開墾した際,埴輪・土偶・刀剣の類を出したという。前方後円墳であろうという。
狐塚の話は、昭和44年以前の話だ。八幡塚古墳からは、平成4年の調査で埋蔵品が多数見つかったようだ。
本殿から振りかえると、武蔵小杉の高層ビル群が見える。
本殿の左奥には雰囲気がなんとなくよい感じの石仏が置かれていたが、由来はわからなかった。
帰ろうとした時に、石碑に御由緒が書かれているのを発見した。ただ、ほとんど読めない。こういう時は一枚撮って、後で拡大しながら読むのがよい。
宇佐神社由緒
誉田別命(応神天皇)
当社は今から九百年前八幡太郎義家の父源頼義公の創建になるものであります。第七十代後冷泉天皇の御代の永承六年に 安倍頼時その子貞任宗任が 朝廷に謀叛をおこしました。頼義公は 朝廷に討伐を命ぜられ京より武蔵の国に入り ここ尾山の地に陣営を張りました。
すると大空には白雲が八つに分かれてたなびき その形が源氏の白旗のように見えたので大いに喜び 頼義公は地に跪き源氏の氏神である八幡様に 勝利の暁にはこの地に必ず八幡社を建てることを誓い蝦夷地に向かいました。
戦いは九年に及び ようやく康平五年安倍一族を平定し意気揚々と京に凱旋する道すがら 尾山の地に立ち寄りました。そして頼義公は先年の誓いによって この地に社を建てて八幡様をまつり 戦勝を報告し神に感謝しました。これが宇佐神社の起りであります。
以来宇佐神社は霊験あらたかな神として 人々の尊崇厚く平和を導く尊い神様武運の神様として 広く崇められてきました。
東京都世田谷区尾山台2丁目11−3
地図などはこちら。
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