浄真寺(九品仏) 世田谷区

等々力の玉川神社から目黒通りを渡って、道なりに進むとやがて浄真寺(九品仏)にぶつかる。もちろん、駅名にもなっている東急大井町線の九品仏駅から歩けばすぐだ。

山門に着くまでにクロマツの並木がある。

公式サイトがあった。

九品山 唯在念佛院 浄真寺
「九品仏」の名で親しまれております当山の正式名称は「九品山唯在念佛院浄真寺」と号し、浄土宗に属する寺院でございます。延宝六年(1678)、奥沢城跡であったこの地を賜り創建致しました。数多くの災害や戦火を逃れ、創建当時を現在も残しております。

山門は境内の広さを考えるとかなり小さく感じる。

山門右に案内板があった。

創建の由来

当山は広く「九品仏(くほんぶつ)」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院淨眞寺(くほんざんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)」といい、浄土宗に属し、境内約12万m2(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678)に、奥沢城趾であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。

山門をくぐると、境内の広さが分かってきた。いや、かなり広い。桜が満開になりかけだったので参拝客も多い。

入ってすぐ左に閻魔堂がある。お賽銭を入れると、閻魔様がメッセージをくれる仕掛けになっている。

まっすぐ行って少し左に行ったところが本堂なのかなと思ったのだが、まだ先だった。ここは開山堂というのだそうだ。

門の右に説明書きがあった。

開山堂

当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来お告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運として広く信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当たる毎月七日の開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。

上人は元禄七年(1694年)10月7日、御年七十七歳にて示寂(じじゃく)され当山の西北にその御廟(ごびょう)がある。

建物は階段を上っていくようになっている。

階段を下りて門を出てから先に行くと、仁王門がある。

ふと見上げると、上にたくさん仏さまがいらっしゃるではないか。

仁王門の右下に案内板があった。

紫雲楼(仁王門)楼上の二十五菩薩

当山に参詣される人々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘厳の浄土(彼岸)であることを示している。この楼門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(らいこうえ)」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。

さらに、仁王門の説明もちゃんとあった。

仁王門

重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼(しうんろう)」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。

一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。

仁王門をくぐると境内の説明があった。

境内

境内周囲の土手はこの地がかつて奥沢城であったときからの名残りで、鎌倉期における築城学上「土塁(どるい)」の形態を示すものとして貴重な史料である。境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木の推定樹齢は七百年以上、また、トチ・高野マキ・菩提樹およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない。武蔵野の面影を残存する霊城である。

参道・総門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂(じきどう)などいわゆる七堂伽藍(しちどうがらん)の完備した僧房として数少ない寺院である。また、寺域全体が極楽浄土の様相に形どられ、弥陀三六(さぶろく)の願いに即して、境内3万6千坪、三仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂ケヤキ柱三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように、細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参詣結縁(けちえん)したならば、往生浄土の信心を得ることができるという願いがこもっているのである。このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失われていく都内の現状のなかできわめてたいせつなものである。将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。

その通り境内の周囲に土手がある。ここが奥沢城だったとは、案内板を読むまで知らなかった。案内板を撮るだけでも忙しい。しかし、案内板は必ず撮るようにしている。その場で読んでも記憶に全く残らないからだ。

仁王門の先も石畳が敷かれ、広い境内につながっている。右手に見えるのが本堂だ。

本堂に行くまでに、右を見ると池があった。浄真寺の裏には湧水池があったと聞いたことがあるが、こちらはポンプのような装置があったので、湧水ではないだろう。ただ、姿は見えないが、カエルが鳴いていた。

そうか、そんな季節なんだと思った。

本堂の手前には、仏足石があった。石に足形が彫ってある。

仏足石

大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足(みあし)に対して、接足作礼(せっそくさらい)により人々は哀心慕情の誠を示した。御入滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範に行われるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(せんぷくりんそう 法輪)が刻されているが、磨滅している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。

ようやく、本堂へ。読経の最中で、YouTubeで生中継しているのだとか。

もちろん、本堂の説明板もあった。

本堂

本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼(しゃかむに)如来(文化財)を安置し、当山第二世珂憶(かおく)上人代、元禄11年(1698年)三仏堂ともども上棟した。世に珂憶造りと称せられ、雄大荘重なる茅ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板葺に大修築を完了した。

本堂はまた「龍護殿(りゅうごでん)」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「来迎会」(おめんかぶり)は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏と二十五菩薩が来迎・往生・還来(げんらい)と3回橋を行道するものである。

もう一枚。アップで撮ったのも載せておこう。

本堂から振りかえると三つの仏堂が向こう側にある。周回できるように通路があるので、ぐるりと歩いて行く。まずは、中品堂へ。

建物全体を撮るのを忘れた。

案内板にはこんなことが書かれている。

三仏堂修覆

元禄11年~12年にかけて建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。

九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである(都有形文化財)。

三体ずつ阿弥陀如来像が入っているののだが、注意力がなくて二体しか写さなかった。

真ん中の上品堂に行くまでに、こんな看板が。

阿育王塔

阿育(あしょか)王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民に臨み、その恩徳国内に満ちたといわれる。インド各地に今も残る釈尊の遺跡に多くの石柱を建立して顕彰の誠を示された。現今のインドの国旗は、この石柱の頭部の法輪である。当山の王塔は、日本様式であり、天保年間のものである。

アショカ王は、昔、歴史で習った名前だ。詳しいことは忘れた。受験科目に選択しないとこんな調子だ。

隣の上品堂は、本堂の対面に建っている。

こちらから本堂を一枚撮った。

ちなみに、本堂から撮った上品堂はこちら。

上品堂の案内板には、来迎会(おめんかぶり)のことが書かれていた。

来迎会(おめんかぶり)

当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来二十五菩薩「来迎会(らいこうえ)」のことで、無形文化財に指定されている。念仏行者が臨終の夕べに、阿弥陀さまが二十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道(ぎょうどう)する尊くもまた厳粛な行事である。

このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。

なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観ください。

上品堂の阿弥陀如来像も三体あるのだが、よく分からないで撮っているので、一体しか撮らなかった。

その隣の下品堂に行くと、丁寧な案内板があった。これを読むと九品仏がよくわかる。

九品仏と三仏堂

珂碩上人(1617~94年)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳の時に完成した九躰の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、末代衆生化益(けやく)の尊い御仏像である。九躰とも文化財の指定を受け、上品(じょうぼん)堂(中央)、中品(ちゅうぼん)堂(右)、下品(げぼん)堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三躰ずつ安置してある。

上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには上品上生から下品下生まで九つの名があり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。

なにゆえに阿弥陀仏さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身(み)と口(くち)と意(こころ)の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患(わずら)うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃(じょうるり)寺(九躰寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。

なるほど、そういうことだったのか。下品堂では、三体の阿弥陀如来像を撮った。

帰る時に、離れて下品堂を一枚撮った。

東京都世田谷区奥沢7丁目41−3

地図などはこちら。

浄真寺 · 〒158-0083 東京都世田谷区奥沢7丁目41−3
★★★★☆ · 仏教寺院
世田谷区寺社
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