氷川神社 世田谷区大蔵

世田谷区は広く、意外と農地が残っている。ああ、きっとこの辺は農村だったんだろうなと思うのが、世田谷区の大蔵だ。東名高速道路のすぐ近くなのに、他の場所と違って、どことなくひなびた雰囲気なのだ。

そこに大蔵氷川神社がある。

ちょうど集落を見下ろすような位置に建っている。

石段と鳥居

石段の左に世田谷区教育委員会がつけた看板があり、御由緒が簡単に書かれていた。

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御由緒

氷川神社

祭神 素戔嗚尊
例祭 十月二日

暦仁元年(一二三八)に江戸氏が埼玉県大宮市の氷川明神を勧請したものと伝える。

もと大蔵町の永安寺が別当であった。永禄八年(一五六五)の棟札には「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神第四ノ宮」と記されていた。

明暦二年(一六五六)に再建され、文政(一八一八~三〇)の初めにも本殿および拝殿が再建された。

昭和五十五年三月

世田谷区教育委員会

大宮にある大きな氷川神社がもとになっているようだ。

別当とは、別当寺のこと。確かに近くに永安寺がある。別当寺とは神社を管理するために置かれた寺のこと。

ウイキペディアにはこのように書かれていた。

当寺は、本地垂迹説により、神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体となっていた。

神仏習合の時代から明治維新に至るまでは、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれた。

別当寺が置かれた背景には、戸籍制度が始まる以前の日本では、寺院の檀家帳が戸籍の役割を果たしたり、寺社領を保有し、通行手形を発行するなど寺院の権勢が今よりも強かったことがあげられる。

一つの村に別当寺が置かれると、別当寺が、村内の他のいくつかの神社をも管理した。神仏にかかわらず、一つの宗教施設、信仰のよりどころとして一体のものとして保護したのである。(出典

境内はわりとあっさりとした雰囲気だった。

社殿

早速、社殿にごあいさつさせていただいた。カメラの設定が間違っていて、屋根が白飛びしてしまった。

後ろには、大蔵氷川神社本殿並びに棟札(むなふだ)の看板があった。

世田谷区指定有形文化財(建造物)

大蔵氷川神社本殿並びに棟札

所在地 世田谷区大蔵六-六-七
所有者 氷川神社
指定月日 平成五年八月九日
形式および規模
本殿(ほんでん) 一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、柿葺(こけらぶき)
桁行 四・五尺(一・三六メートル)
梁間 三・七尺(一・一二メートル)
向拝(こうはい)の出 三・三尺(〇・九九メートル)

棟札
[社頭一宇] 延宝三年(一六七五)
[社頭一宇] 元禄六年(一六九三)
[弊殿] 文政三年(一八二〇)
[本殿] 文政七年(一八二四)
[鳥居二基] 元文三年(一七三八)
[宮鳥居] 明和八年(一七七一)
[石華表 石灯籠 湯立釜] 寛政七年(一七九五)
[石華表 同額幷 石灯籠一對] 文化八年(一八一一)
[奉納金] 文化八年(一八一一)
[内容不詳] 明暦二年(一六五六)
[内容不詳] 文政七年(一八二四)

現存する最も古い年紀のある棟札は、何の目的で奉納されたのかは不明であるが、明暦二年(一六五六)のもので、これを含めて十一枚の棟札があり、うち社殿造営に関するもの四枚、鳥居に関するもの四枚、その他奉納金や上棟祭などに関するものが三枚となっている。

社殿造営に関しては、延宝三年(一六七五)、元禄六年(一六九三)にそれぞれ、[氷川大明神社頭一宇]と記された棟札が一枚ずつあり、その後文政三年(一八二〇)の弊殿(へいでん)建立と、同七年(一八二四)の本殿再建の棟札がある。

弊殿は現存していないが、現在の本殿は文政七年再建のもので、昭和六十三年に再建された社殿の中に納められている。

社殿の造営関係の棟札の他に、鳥居の造立やその他の奉納に関する奉納札がある。うち二枚は木製の鳥居の造営と修復について、他二枚は寛政七年(一七九五)の石華表(石鳥居)と石灯籠、湯立釜の奉納札、文化八年(一八一一)の石華表とその額、石灯籠の奉納札である。

その他にも、文化八年(一八一一)には奉納金として三両三分が納められ、その金子をもとに、土地を買い求めていることが記された奉納札などが残されており、これらの一連の棟札は、社殿の造営のみならず、村社としての氷川神社の変遷や当時の庶民の信仰を知ることができる貴重な資料である。

本殿は、一間社流造の様式をもち、屋根は柿葺、総欅(けやき)造りである。正面に向拝が配され、その下には木階五級が付けられる。

木階下には浜縁(はまえん)が三面に廻り、身舎(もや)の四周には幅2尺の大床が付く。装飾は白木造りで、龍の丸彫りをはじめ、鮎や賢人の浮彫、籠彫(かごほり)が施されており、社殿に華美な彫刻を施すという、時代的特徴をよくあらわした建物である。

棟札により、建築年代のほか、上平間村(現川崎市)の大工渡辺喜右衛門源棟暁が造営にあたり、彫刻は渡辺徳次郎源棟績により行われたことが判る。

このように本殿は、江戸時代後期の時代的特徴を良くあらわし、一連の棟札は社殿の造営や神社の変遷などを知るうえで貴重である。

これを読んで、社殿(もしくは拝殿)が来た人が外から祈る建物で、社殿の中に、本殿がある(もちろん公開されていない)ことを初めて知った。

さらに、本殿と棟札は世田谷区のサイトに写真がでていたので、そちらをご覧になるとよいと思う。

世田谷区指定有形文化財 大蔵氷川神社本殿並びに棟札の紹介

世田谷特産の大蔵ダイコン

ところで、このあたりは大蔵大根の産地として知られている。大根を買いに行くと青首大根かたまに三浦大根が置いてあるばかりだが、この大蔵大根は上から下まで同じ太さという特徴がある。

大蔵大根は、昭和40年代までは世田谷の至るところで栽培されていましたが、昭和49年に誕生した病気に強く栽培しやすい青首大根の普及に伴い、白首系の大蔵大根は次第に姿を消していきました。

江戸東京野菜 物語篇にはこのように書かれていた。

絶滅しそうになった野菜に、世田谷区の伝統野菜<大蔵ダイコン>がある。このダイコンは、世田谷区大蔵町の農家、石井泰次郎氏が「源内つまり」を改良した耐病性品種で、昭和28年(1953)に名称登録されている。

伝承では、西山(武蔵野台地)一帯の地ダイコンと交雑して生まれたものが原種とされ、江戸時代に豊多摩郡代々木村の源内という百姓が作り出したものが、世田谷の大蔵原に伝わって<大蔵ダイコン>になったといわれている。

根の色は純白、円筒形の寸胴で、肉付きのよいのが特徴である。根の端から端までが同じ太さなので、割切りにすると均等に切れて無駄がなく、しかも水分が少なく煮崩れしにくいので、おでんには欠かせない。

しかし核家族の生活では大き過ぎた。そんな時に、大きさが手頃で甘い青首ダイコンが登場し、市場は一気に青首ダイコンに占められてしまった。

これにより、煮崩れしないことからおでんの具には欠かせなかった<大蔵ダイコン>は、昭和50年代以降は栽培されなくなっていった。

今日、ダイコンに限っていえば、スーパーなどの野菜売り場では青首ダイコン一色である。しかし、25年の歳月を経た平成9年(1997)、「世田谷区内の農産物をPRするためにも、地元ゆかりの野菜であるダイコンを見直そう」と、再び<大蔵ダイコン>が栽培されるようになった。

世田谷の生産者たちが試作した<大蔵ダイコン>を食べた消費者の「おいしい」の一声が、生産の復活につながったのである。

世田谷で復活した幻のダイコンは、青首ダイコンにはない味わいがあることから、都内各地でも栽培が始まり、毎年、11月中旬から1月下旬にかけて販売されている。

なんとか一度買ってみたいと思っているのだが、まだ実物を見たことがない。

世田谷区大蔵6丁目6

★★★★☆ · 神社 · 大蔵6丁目6
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