駒沢公園から駒沢公園通りを目黒通り方向に向かって道なりに走る。目黒通りに出るところにあるのが、玉川神社だ。最寄りの駅は、東急等々力駅。満願寺の道をはさんだ隣にある。こちらの鳥居から入ってしまったが、目黒通り沿いに大きな鳥居がある。
改めて表から入った。
鳥居の右に世田谷区の案内板があった。
玉川神社
祭神 伊弉諾尊 伊弉冊尊 天照皇大神
例祭 九月二十八日文亀年間(一五〇一~四)に世田谷城主吉良頼康が勧請(かんじょう)したものと伝え、別当は満願寺で等々力村の鎮守であった。
明治五年に村社に定められ、同四十一年に熊野神社の社号を玉川神社と改め、付近の天祖神社、諏訪神社、御嶽神社を合祀した。
境内には、郷土開発の偉人、豊田正治翁の碑などがある。
昭和五十四年三月
世田谷区教育委員会
鳥居そばの狛犬さん。右。
そして左。
境内に入ると、すぐに右の木が目につく。すごく変な形。まるで壺のような形をしているのだ。自然にこうなったのか、人の手が加わったのか。
クスノキなのだそうだ。思わず木の回りを1周した。
境内は広い。もうずいぶん前のこと、15年以上前になると思うが一度来たことがある。その時の印象は、何となく枯れた雰囲気を感じたのだが、そんなことはなく、神社らしい空気だ。
手水舎は鳥よけなのか、プラスティックのふたを開けてひしゃくで水をすくうスタイル。
さて、ご挨拶をさせていただこう。
その前に、せたがや社寺と史跡(その二)から、もっと詳しい説明を読んでみよう。
玉川神社
祭神は伊弉諾命・速玉男命・事解命である。文亀年間に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え,明治41年熊野神社の社号を,いまの玉川神社に改め,宇上原にあった伊勢宮(天祖神社)諏訪神社,宇小山根にあった御嶽社を合祀した。なお,本社には天照大神,日本武命,少彦名命,建御名方命が合祀されている。
玉川神社の総本社である熊野新宮は,もともと熊野に移住した出雲族が,郷里の氏神であるところの島根県八束郡八雲村宇熊野にある熊野神社を分祀したもので,微々たる存在だったが,平安中期に起った熊野信仰の隆盛と共に,朝廷以下一般の民衆の支持により全国的に信仰せされ,鎌倉時代には,山伏や先達により全国に熊野神社が勧請され,特に,武士に厚く信仰されるようになり,代々社寺を尊崇した吉良頼康も,当村の流行でこの熊野神社を創立したものと思われる。
境内にある「豊田正治翁頌徳碑」の石碑は昭和29年に玉川全円耕地整理組合によって建てられたものである。
豊田翁は,この地塁代の名家に生まれ,学を杉浦重剛先生に受け,その思想を実践した人で,玉川村々長として,将来の郷土開発事業として玉川村全域の耕地整理,道路整備(宅地造成)に時価にして数十億の巨費と32年の才月をかけいろいろな妨害や障害をのりこえて昭和32年に完成させた。現在,旧玉川村の人々が郊外住宅地として恩恵を受けているのは翁のおかげである。なお,その石碑と並んでいるのは,この耕地整理の技師,高屋直弘氏の留魂碑である。
玉川神社の真南,等々力1-25にあった八幡社は,玉川神社の管理であったが,昭和39年玉川神社に合祀された。
拝殿の手前に、祓戸社があった。
祓戸の神様は
諸々の禍事・罪・穢を
祓ってくれる神様です
先に
「祓へ給へ清め給へ(はらえたまえきよめたまえ)」
と唱へて
身を清めてから
本社・末社を
お参りしてください
郷土開發之偉人 豐田正治翁之碑
豊田正治氏の業績については、玉川地域を読むと知ることができる。
高屋直弘翁 留魂碑
末社のこちらは、天満宮なのか、合格祈願の絵馬が下がっていた。
金運昇運と書かれては祈らずにいられない。
お稲荷さんもあった。
そして、三峯神社。
本殿に戻って反対側を見ると、石獅子の看板があった。神田明神にもあったような気がする。
石獅子(いわしし)
獅子は 子を産むと
その子を 深い谷底に投げ
落とし生き残ったものだけを
育てるという俗説から
自分の子に試練を与え
その才能をためし 立派な
人間に育てることのたとえ
として 遠き昔よりこの様な
子育ての信仰があった
右斜めから本殿を一枚。
社務所も立派な建物だ。
東京都世田谷区等々力3丁目27−7
地図などはこちら。
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