西澄寺 世田谷区

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駒沢通りを五本木から三宿に抜ける鮫洲大山線(この道の名前を初めて知った)を下馬1丁目で左折、しばらく走ると右手にある。木が多いのですぐにわかる。

左側に「都重宝 武家屋敷門」の石柱がある。

両側に墓地があるがその間を進むと、山門が武家屋敷門だ。

手前に説明の看板があった。

東京都指定有形文化財(建造物)

武家屋敷門(ぶけやしきもん)

所在地 世田谷区下馬二-一一-一六
指定 昭和三九年四月二八日

現在の港区芝五丁目にあった阿波徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を、大正末頃に西澄寺に移築したと伝わり、山門として転用されています。

切妻造で、桁行六間の、中央に二間の両開き戸があり、その左右にそれぞれ片開きの潜戸と板壁を設けます。門の両脇には、切妻造で桁行二間、梁間三間の出番所が配されます。六畳の番所には、表側には格子窓と、門内に面した側には式台が構えられています。

この門は江戸時代末期に建築されたと推定されており、いわゆる両番所附石垣出屋根庇造と呼ばれる構造の門です。大名屋敷の表門については、幕府は貞享年間(一六ハ四~八八)に、大名の家禄高を基準に家格を加味して、その形式・構造を定めています。

蜂須賀家の中屋敷門として、二五万石の大々名の家禄と家格に応じて建築されたものと考えられます。東京に残る数少ない武家屋敷門の一つとして、貴重なものです。

平成二二年三月 建設

東京都教育委員会

広角側28mmのレンズだが入口を入れるとこの程度までしか入らないが、門の雰囲気はわかっていただけるだろうか。

反対側からも撮ってみた。

念のため正面も。

境内に入ると、本堂の左にあるコウヤマキの大木が目を引く。武家屋敷門から入ったせいか、境内の雰囲気は、凛とした感じがする。

コウヤマキはまっすぐ伸び、よく手入れされている。

早速、ご挨拶を。

せたがや社寺と史跡(その一)に由来が書かれていた。

西澄寺

新義真言宗智山派に属し,京都智積院の末寺で,日輪山薬王院西澄寺と称する。本尊には大日如来,薬師堂には薬師如来が安置されている。

天正2年(1574)河内の人隆向和尚が紀伊国高野山釈迦院より下錫開山したものといわれているがくわしいことはわからない。江戸時代に中興したのは,大久保六右衛門忠勝で当時の住僧は宥秀和尚「寛文12年(1672)寂」であった。

明治維新前後からは,無住の寺で荒廃していたが,明治25年近江の人慧荘和尚は高野山より当山へ第10世の住職として来たり荒廃した本堂,庫裡等の再建を念願し,薬師堂にて1000日の穀断ちの修業をした。

そして高野山で修得した灸術をもって近郷の人々の救済をしたところ霊灸の評判をとり,受灸者でにぎわった。現在も慧荘和尚より伝わった灸術で遠く北海道九州からも受灸者が来ている。

山門は武家屋敷門で都霊宝の指定を受けている。大正11年,本堂の改築の時,港区三田四国町にあった旧蜂須賀家屋敷門を移築したと伝えられている。番所に格子窓を設けるなど若干の変更があるが5~10万右の大名の屋敷門の形式,構造,装飾等を備え,数少ない武家屋敷門の遺構として貴重である。

梵鐘は明治32年受灸者から奉納された鏡,かんざし等の金属をもとにして鋳造した。たまたま,第二次世界大戦で供出したが,終戦時に無傷のまま深川の焼跡より発見され当山に復帰した。

本堂左側の高野槇の大木は開山の隆向和尚が高野山より移植したものといわれ,樹令数百年の古木である。この槇の木に登った人は失明するとか,当山にあった古木を伐採した時この槇も切ろうとしたら,3名までも仏罰を蒙ったなどといわれ,この槇は薬師如来の化身だとされた。

当山に薬師堂を建立し薬師如来を安置し供養するようになったのもこのためだといわれる。

コウヤマキはいまも生命力に溢れる感じだったが、薬師堂を建立するきっかけになったとは。

薬師堂である。

コウヤマキの隣にはお稲荷さんがあった。

寺務所も立派な造りだ。

裏門から出たらアマチュア無線のアンテナとタワーが建っているのに気がついた。きっとお好きなのでしょう。

東京都世田谷区下馬2丁目11−6

地図などはこちら。

西澄寺
★★★★☆ · 仏教寺院 · 下馬2丁目11−6

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