満願寺 世田谷区

目黒通りを目黒方向から東急等々力駅手前まで走ると、右手に満願寺がある。立派な真言宗のお寺だ。

満願寺には公式サイトがあった。

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白壁の角に世田谷区の案内板があった。

致航山 満願寺 (新義真言宗智山派)

文明二年(一四七〇)吉良氏によって開基され、開山は定栄和尚、本尊は大日如来である。江戸時代には、御朱印寺領十三石が与えられていた。山門の額は細井広沢(こうたく)、本堂の額は広沢の子九皐(きゅうこう)の筆である。細井広沢は、元禄年中その学識をもって柳沢吉保に重用され、晩年は玉川を愛して蕉林庵玉川(ぎょくせん)と号した。当代の代表的名筆家として知られている。寺内の墓は国の史跡に指定されている。

昭和五十四年三月

世田谷区教育委員会

山門は大きなわけではないが、モダンな造り。境内の広さが遠くからも分かる。

山門の左に詳しい説明があった。こういうのは読んでもすぐにわからないので、撮って後で調べながら読むに限る。

満願寺 縁起

致航山感應院満願寺は真言宗智山派の名刹で、本尊は金剛界大日如来、開創は平安末と伝えられる。室町時代に吉良氏の世田谷城の出城、兎々呂城に祈願寺として現在地に移され中興された。山号を醫王山から致航山に改め、このときに本尊は、薬師如来から大日如来となった。

徳川幕府より寺領十三石を得、総本山に代わって仏教、密教を教え伝える灌頂道場でもあり常法談林三衣の格式を持つ寺である。

現在の山容は昭和四十五年に落成した昭和を代表する名建築。設計は現代数寄屋建築の第一人者吉田五十八氏。昭和六十二年に境内西側に講堂が完成。また客殿の北側には総檜造りの大塔が聳え静謐な宗教空間を醸し出している。大塔の本尊は胎蔵界大日如来が虚空に浮かぶ中台八葉院に安置されている。講堂の本尊は八頭の獅子座に座る一字金輪如来。

講堂の一隅には一言祈れば願いが叶うという日本三体地蔵の一言地蔵が祀られ多くの参詣者が訪れる。

境内北側には薬師如来を祀る瑠璃光院薬師堂があり東隣には玉川神社(旧熊野権現)があり明治までは満願寺が別當を勤める。

ご本堂北側には東京都史跡、江戸時代の万能の天才、細井廣澤の墓がある。山門の額「致航山」は廣澤の書。本堂の「満願寺」は廣澤の長男、九皐の書。当山には廣澤の遺品が数多く伝わる。

なお兎々呂城を「ととろき」と読むところから等々力という地名の由来という一説あり。

平成二十五年(2013)から平成の大改修を行い、本堂、客殿の大屋根をチタンに葺き替えと大塔檜皮の葺き替え創建当初の美しい姿を甦らせた。

日本全国に名前の轟く等々力不動尊は満願寺が管理し、同じくご本堂の瓦の葺き替え、舞台の改修、山門の解体修理なども終わり、大般若経六百巻の造顕し、来る令和五年(2023年)に迎える弘法大使ご生誕一二五〇年記念大聖業として境内整備を行っている。

満願寺 山主 龍樹

これが山門の額「致航山」。

これが、本堂の「満願寺」。

境内は広々としている。本堂の後ろに木があるが、境内にはほぼない。代わりに砂利が敷いてある。キリッとした感じの清浄な空気。優しい感じではない。

本堂はこのようなモダンな建物。お彼岸なので卒塔婆が並べられている。

左を見ると弘法大師一千百年御遠忌供養塔がある。

左を見ると、同じような建物だが、こちらに寺務所があるようだ。

本堂の左側には石板に彫られた普賢延命大安楽不空真実一百八臂金剛蔵王大菩薩があった。

境内の裏には、薬師如来をまつる瑠璃光院薬師堂がある。こちらはだいぶ雰囲気が違う。

本堂はそれほど古くないようだ。

基礎がコンクリートである。本堂右に案内板がある。

こちらだ。

薬師如来の浄土は東方浄瑠璃光浄土ですので
薬師如来を瑠璃光如来と稱てます そして
阿弥陀如来の西方極楽浄土とは
相對してゐるのです
薬師如来の脇士は日光菩薩月光菩薩です
亦 薬師如来の十二の誓願を具現したのが十二神将で 十二支の守護神です。
左手掌に薬壺を戴き 右手施無畏の印

南無大醫王瑠璃光薬師如来

御真言 おんころころ せんだり まとうぎ そわか

弘法大師の言葉(意譯)

大医王は薬石の在り所を知って
岩山に入りこれを採掘し路傍の
雑草や木の實も採取して生薬とし
毒も薬として治療される

寄進 賽銭箱 匿名

本堂右にあったこの玉は何だろう?とてもお金がかかっていると思うがわからない。

そして、その奥にはお地蔵さん(?)がいらっしゃる。

東京都世田谷区等々力3丁目15−1

地図などはこちら。

満願寺 · 〒158-0082 東京都世田谷区等々力3丁目15−1 満願寺
★★★★☆ · 仏教寺院

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