傳乗寺 世田谷区

駒沢公園から駒八通りを道なりに走り、目黒通り、環八を越えて急坂(国分寺崖線)を下りていくと右手に傳乗寺がある。隣は宇佐神社だ。通り沿いにある山門。小さいがすごく立派だ。

山門をくぐると、ああ、いい場所だなと思う。空気に適度な湿り気があり、落ち着いている。しかも向こうには、五重塔がある。建物、敷石など一つ一つにかなり手間がかかっているのが素人の私でもわかる。

ちなみに境内は決して広くない。本堂の左に墓地があるが、それをあわせた敷地面積も広くはない。

本堂と寺務所だ。下の画像の赤い部分は、駐車場なのである。境内は広くない。狭い方かもしれない。しかし、掃除や手入れが行き届いていてすごく気持ちがよい空間だ。

本堂は閉まっていた。

松高山という扁額があった。

せたがや寺社と史跡(その二)によると、このように書かれていた。

伝乗寺

次太夫堀(六郷用水)のほとり,北側にある。松高山法生院と号し,浄土宗で,川崎市小田中の泉沢寺の末,開山は住誉良公和尚という。本尊は阿弥陀如来で木の坐像3尺(約1m)ばかりで,板碑を数多く存している。『新編武蔵国風土記稿』によれば,「除地三段五畝,宇根通ニアリ,(中略)本堂ハ六間ニ四間,南向ナリ。(中略)表門両柱ノ間9尺」と記している。

寛政10年(1798)の西村和泉守作になる村念仏講中の伏鉦がある。

享和2年(1802)に「さいの神」の火が移って焼失したことがあった。本堂は文化4年(1807)3月に,庫裡は享和2年(1802)2月に建てられている。

本堂の地蔵菩薩立像は頭部のみ古作で,一木で保存もよく,美しい。藤原期のもので胴体は後補である。小阿弥陀如来座像は鎌倉期のものである。

本堂の柱に狛犬さんが。左。

こちらは右。

本堂の左は墓地の出入り口。本堂の左斜め後ろに五重塔がある。新しい感じだ。ネットで調べてみると、2005年と書かれた記事がいくつか出て来たので、2005年に建てられたようだ。

くるくるまわるようになっていた。南無阿弥陀仏と書かれているのかな。

駐車場の後ろに山門があるので出てみると、金剛力士が安置された仁王門だった。こちらが正式な山門なんだ。私が入った山門は、クルマの出入口を兼ねている。

来た道を引き返すと、登り坂の右手に寮の坂と書かれた石柱があるのに気がついた。

回り込むと道標でもあるらしい。籠谷戸ってなんだろう?

丸子川に注ぐ「籠谷戸(ろうやと)」の流れをたどる-高校を抜ける湧水暗渠という記事に詳しく書かれていた。

丸子川に注ぐ「籠谷戸(ろうやと)」の流れをたどる-高校を抜ける湧水暗渠 | 東京の水 2009 fragments
国分寺崖線に沿って流れる丸子川を歩いていると、世田谷区から大田区へ入る手前のあたりで、急に水質が良くなっているところがあった。 護岸を見てみると、右...

籠谷戸は谷のことで、16世紀中ごろまで、多摩川の入り江だった。様々な物資がこの入り江を利用して荷揚げされ、現在の九品仏・浄真寺のところにあった「奥沢城」まで運ばれたというと書かれていた。

寮の坂由来という石碑があった。

寮の坂由来

松高山傳乗寺は 区内における古刹でありその縁起は遠く後伏見天皇の正和五年(一三一六)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである 往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し かつ本堂とならんで僧侶の学寮が建てられていたために この坂道を土地の人は寮の坂と呼んでいる 坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせると この坂の名称の由来が思い起こされる

なお寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は 室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で多摩川の水が滔滔と打ち寄せ 時の奥沢城主大平出羽守は 上流から運ばれた武器兵糧の類を籠谷戸 寮の坂あたりに陸揚げをして城へ運び入れたともいい伝えられている

さらに時代は下り江戸時代に入ると川崎泉沢寺と奥沢淨真寺の中間軍事拠点として尾山傳乗寺がこれに当り 寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである

走ってきた駒八通りは、確かに奥沢淨真寺、九品仏のすぐ横を通る。このあたりが多摩川からの荷揚げルートだったと知ると面白い。

坂道の向こうを見ると、多摩川の対岸、川崎側が見える。この坂を下りると東京都市大学がある。

東京都世田谷区尾山台2丁目10−3

地図などはこちら。

傳乗寺
★★★★☆ · 仏教寺院 · 尾山台2丁目10−3

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