阿蘇神社 羽村市

久しぶりに阿蘇神社に来た。ここは羽村市。東京の自転車乗りには有名な神社だ。多摩川サイクリングロード(通称多摩サイ)は55キロの長さがあるが、ここは上流左岸(東京側)の一番端っこになる。

御由緒か書かれていた。御由緒はいただいたパンフレットにあったものを後で書くが、この看板を見て例祭の日にちがわかった。

例祭日

(春)四月第二日曜日(秋)十月一日

阿蘇神社は、この一帯の鎮守様かと思ったら、とても歴史が古い。推古天皇の時代からだったとは。この記事を書くまで御由緒を読んだことがなかった。

由緒

当社の創建は人皇三十三代推古天皇の御代九年五月(六〇一)神託に依り、村中の最良の地に清地を築き霊物を鎮め斎き祀ったのに始まる。

以来、里人は申すまでもなく、領主、武門に至るまで崇敬厚く、彼の平将門東国に武を振いし折、当社の神徳を伝え聞き、社殿を造営して武運長久を祈ったと云われる。

天慶三年(九四〇)謀反に当たっては下野の押領使藤原秀郷神託に依り社殿を造営寄進した。その後正平九年(一三五四)、延徳元年(一四八九)造営が行われ、永正十三年(一五一六)小田原北条氏は永二十貫文の神領を寄進、天文五年(一五三六)三月、武蔵七党のうち三田氏の一員、三田掃部助定重社殿を修造寄進す(天文の棟札)。

この時の棟札は現在に伝えられ、文面に「七度造立」と見え、これ以前に六度もの造営が行われたことを伝えている。

慶長三年(一五九三)社殿を修造(慶長の棟札)、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の陣中に武運長久の神符を献上す。

その後家康公卿鷹狩の折、社頭に参詣して河狩を楽しまれ(明暦の由緒書)、馬場二町四方(一二、〇〇〇平方米)の寄進をしたと伝えられる。寛永七年(一六三〇)正保四年(一六四七)社殿の破損せるを修理す。

慶安二年(一六四九)八月二十四日徳川三代将軍家光公より先規により十三石の御朱印地の寄進を受ける(朱印状)。

延宝四年(一六七六)三月社殿が再興され、棟札に将門建立以来八度也と見える。貞享二年(一六八五)、徳川綱吉公より改めて十三石の御朱印地の寄進受ける。正徳元年(一七一一)社殿の修造を行う。

享保三年(一七一八)徳川吉宗公より御朱印地の寄進あり。元文五年(一七四〇)社殿造営を行う。延享四年(一七四七)徳川家重公、宝歴十二年(一七六二)徳川家治公、天明八年(一七八八)徳川家斉公、天保十年(一八三九)徳川家慶公、安政二年(一八五五)徳川家定公より、御朱印地の寄進を受けた。

安政六年(一八五九)七月、古今未曾有の大洪水ありて、水位平常より一丈五尺余り増し、社地、社領、神主屋敷、鳥居にいたるまで流失す。

安政六年十二月寺社奉行松平伊豆守の許を受け、江戸府内、武蔵、下総の二ヶ国に年三回(正、五、九の月)神札の頒布を為し社頭経営を行う。

萬延元年(一八六〇)徳川家茂公より改めて十三石の御朱印を受く。明治二年旧称阿蘇大明神・阿蘇宮を阿蘇神社と改め、社領上知となり逓減録金五拾円御下賜、明治三十四年九月十日幣帛供進指定村社に列し、昭和二十一年宗教法人の登記を為し神社本庁に所属す。

まずは本殿にご挨拶

本殿の前に立つといつでもヒノキのにおいがする。境内は真夏に来ると木の葉が生い茂っているせいか、やや暗い印象を受けるときもあるが、本殿の前は別だ。

祭神はパンフレトによると主神三座と書かれていた。

健磐龍命(たけいわたつのみこと)阿蘇大神と称え神武天皇の皇子神八井耳命(かむやいみみのみこと)の皇子神

阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)阿蘇大神の妃にして国竜神(くにたつのかみ)の女神(ひめがみ)

速瓶玉命(はやみかたまのみこと)大神の第一皇子神

狛犬さんである。「阿」

こちらは「吽」

いつも清浄な空気がただよっている。来てよかったと思う。今日は先客にお宮参りの若いご夫婦がいらっしゃった。幸せそうでいいなあと思った。

立派な看板だ。

こんな看板があった。本殿についての説明だ。

東京都指定有形文化財(建造物)

阿蘇神社本殿(あそじんじゃほんでん)

所在地 羽村市羽加美四-六

指定 昭和四一年三月三一日

阿蘇神社は多摩川左岸の崖上に鎮座する旧村社です。社記によれば推古天皇九年(六〇一)の創建と伝えられています。

その後承平年間(九三一~九三八)平将門が造営し、藤原秀郷も造営したといわれています。

現存する天文五年(一五三六)の棟札によれば、勝沼(現・青梅市)に本拠を置いた三田定重が七回目の改修を行ったことが銘記されています。

また、現在の本殿は、昭和六一年(一九八六)の解体修理の結果発見された蟇股及び柱下の墨書から棟札にもある延宝四年(一六七六)の再建であったことが判明しています。

本殿の構造及び形式は、軸部柱真々正面四尺八寸(一・四五m)、側面四尺三寸(一・三〇m)、一間社流造、柿葺、大棟は箱棟、鬼瓦付、正面及び左右両側は切目縁付、はね高欄の向拝付、脇障子止め、軸部欅材、丸柱、周囲地長押、頭貫、木鼻付、正面幣軸溝、小脇坂、両開板戸、側面及び背面板壁、正面木階五級、上り高欄、宝珠柱付浜縁の造りです。

この本殿は建築年代の明らかな江戸時代初期の神社建築として貴重なものです。現在は覆屋の社殿内に鎮座しています。

平成二二年三月 建設

東京都教育委員会

私は2002年から時々来ているが、2005年に自転車ブームになり、多摩サイを走る人がとても増えた。その頃だったか?正確に覚えていないが、自転車お守りができた。

こちらが正式な参道。多摩川沿いに歩いてくる。

手水舎の向こうには多摩川が見える。

羽村は養蚕が盛んだったんだね。

江戸・東京の農業 養蚕の村・羽村

養蚕が我が国に伝えられたのは弥生時代前期頃といわれ、中国説と韓国説などがあります。

武蔵国と呼ばれたこの地方では、8世紀初頭に養蚕と機織(はたお)りが行われていましたが、盛んになったのは江戸時代になってからで、その頃の養蚕は主に女性の仕事でした。

安政6年(1859)横浜開港に伴う輸出額のうち生糸・蚕卵・繭(まゆ)が8割をしめたといわれています。

養蚕業が国策産業として推奨され、その後1世紀以上にわたって主要貿易品目として日本の近代化に貢献してきました。

水田に恵まれない多摩地方では、繭生産は貴重な現金収入で、明治33年(1900)東京は全国8位の主要養蚕地帯となりました。

羽村市では明治に入り、指田茂十郎、下田伊左衛門等の献身的な努力もあって養蚕先進地となり、大正8年には養蚕農家346戸、桑畑340ヘクタールと全耕地の70%を占め、当時一戸あたりの収繭量日本一を自負したといわれるくらい「全村これ蚕に明け、蚕に暮れる日々が続いた」と記録されています。

平成9年度JA東京グループ

農業協同組合法施行五十周年記念事業

西多摩農業協同組合

本殿の左にはかなり古いシイの木がある。

東京都指定天然記念物

阿蘇神社(あそじんじゃ)のシイ

所在地 羽村市羽加美四-六-七
阿蘇神社内

指定 昭和一四年三月

多摩川の左岸崖上にある阿蘇神社は、社記によると推古天皇九年(六〇一)の創建と伝えられる古い神社です。

天然記念物のシイは、その神社社殿西側多摩川沿いの石積みで作られた高さ十数mの崖の上にあります。

樹高一八・〇m、幹回り六・二m(平成七年調べ)で姥ヶ淵と呼ばれる多摩川畔に大きく懸崖している大枝が特徴の老樹です。

平将門を討った藤原秀郷が天慶三年(九四〇)に社殿を造営したときに手植えしたという言い伝えがあります。

平成二二年三月 建設

東京都教育委員会

残念ながら私のカメラでは全体を撮ることができない。

東京都羽村市羽加美4丁目6−7

★★★★☆ · 神社 · 羽加美4丁目6−7
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