深沢神社 世田谷区

駒沢公園から駒沢通りを二子玉川に向かって走り、日体大の手前の緑道(呑川の暗渠になる)を左へ。右手にある三島公園の上に深沢神社がある。大きな道からわかりにくいが、なかなか敷地が広くて鳥居も大きい。

公式サイトがあった。入ってみよう。鳥居のそばには大きな木があった。

深沢神社
深澤神社は室町時代から祀られる東京都世田谷区深沢にある神社です。深澤神社の例大祭、お祭りは10月の第一日曜日です。

手水舎がとても立派だ。

早速、ご挨拶させていただいた。

御由緒が見つからなかったので、自分で調べた。せたがや社寺と史跡(その二)に御由緒が詳しく書かれていた。(実は、御由緒は社務所の隣にあるが、駐車中の車の後ろなので見えなかった)

深沢神社

深沢5-10-1

祭神は天照皇大神・大山都見尊・倉稲魂命,もと三島神社といい,小田原城主北条氏の家臣で豆相および下総国の一部を領有していた深沢村の兎々呂城(ととろき)主谷岡重賴が,永禄7年(1564)伊豆国の三島神社の分霊を勧請したものという。

『新編武蔵国風土記 稿』によれば,この重賴は三島の地をも領し,殊に三島社を尊信したので,遙拝のために此所に移したものという。神体は金像で古物というとある。「社ハ二間ニ一間,社前に池アリ,中ニ三ノ小島ヲ築キ,何モ丸木橋ヲ渡セリ,池ノ前後ニ鳥居アリ,何モ両柱ノ間九尺,スベテ西ニ向ヘリ」と記している。

大正4年11月,社殿および神楽殿の改修の後、村内にあった7社,すなわち慶長3年(1598)、伊勢外宮(天祖神社),伊勢内宮(伊勢神社)を,元和元年(1615)山城国石清水八幡宮(八幡神社)を移し,寛永2年(1625)山際御嶽神社,稲荷神社2社を三島神社に合祀して,神社名も地名により深沢神社と改称した。

「神明社除地一段歩,村ノ西方古塁跡ニアリ,昔コノホトリノ住人,小谷岡太兵衛尉重長ノ命ニヨリテ伊勢ノ内宮ヲ勧請ス,(中略)年歴詳ナラズ,社ハ一間ニ一間半,鳥居モ立リ,共ニ北向」きであり,他の神明社は「除地二十五歩南ノ東ニアリ,(中略)重継父ノ命ニヨリテ伊勢ノ外宮ヲ勧請ス,本社一間ニ一間半,拝殿二間四面,鳥居共ニ南向」で百姓持であった。例祭は10月1日である。

境内の池には片目の鯉の伝説がある。境内の弁天様に眼病で苦しむ人々が願をかけ,身替わりに鯉の目をつぶして池に放したものであるという。境内に菩提樹が多い。

もと此処に掻上の小城があり,北条氏の家臣南条右京亮重長が居たと伝えている。本社は昭和42年11月,鉄筋コンクリートの神明造に新築された。

本殿の右手には、御神輿が入っているんだろうか?

その前にまた鳥居があり、熱心に拝んでいる方がいらした。

横を見ると、御由緒が書かれていた。

深沢弁天社由緒

祭神 市杵島姫命

当社は永禄年間、伊豆三嶋大社の末社で、弁財天として名高い嚴島神社から勧請したものと伝えられております。

この三嶋弁財天は伊豆の豪族北條氏の守護神として篤く信仰され、殊に北條政子の命により文覚上人が江ノ島の聖地に勧請したのもこの三嶋弁財天なりと伝えられております。

深沢神社境内神池に奉斎された弁財天は古来より 神として濃厚灌漑用水の守護神と神徳が称えられ さらに商売繁盛、安産、芸能の神としての信仰が加わり、また招福の神として往古より近郷近在の信者から信仰を集めて参りました。

池には片目の鯉の伝説があり、眼病で苦しむ人々が弁天様に願をかけ、片目の鯉を池に放したと伝えられております。

海ならず たたえる水の 底までも
清き心は 月ぞ 照らさん
菅公

昭和四十七年十月八日
深沢弁天社復興奉賛会

さらにこの後ろに通路があり、下に降りることができるようになっている。柵の向こうは公園になっているが、池がある。ここが水源なのかもしれない。

こちらが本当の弁天社らしい。

社務所は大きく、やはり鉄筋コンクリート造りだ。境内は駐車場としても利用されているのかもしれない。クルマが数台停められていた。

東京都世田谷区深沢5丁目11−1

地図などはこちら。

深沢神社 · 〒158-0081 東京都世田谷区深沢5丁目11−1
建造物
世田谷区寺社
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