慈眼寺 世田谷区

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渋谷から246を二子玉川に向かって走り、環八を右折してすぐに左折する。多分適当に走っても木がたくさんあるところを目指せばお寺と神社がある場所にたどり着く。その中の1つが慈眼寺だ。

慈眼寺山門

公式サイトがある。丁寧な説明だ。

慈眼寺・index

山門を入ると、一部工事中だったが、ジャマにならないように進む。

本堂はコンクリート造で初めて来たので、賽銭を入れようと思ったが、扉が完全に閉まっていて賽銭を入れられなかった。ご挨拶だけした。

本堂

せたがや社寺と史跡(その二)にはこのように書かれていた。

慈眼寺

喜楽山教令院慈眼寺という。新義真言宗で神奈川県小杉村西明寺の末寺で,京都の醍醐寺派に属する。

徳治元年(1306)法印定音が巡錫の途上,この地を通ったとき里人が滝ヶ谷戸崖の中段から降三世明王を発掘したのをゆずりうけ郷土長崎四郎左衞門に告げ,天の奇異なのを思い,定音は小堂を建て,これをおまつりした。たまたま里人が障害をこうむったので再び像を地におさめ代りの像をきざんでおまつりした。里人その像をしたいくる者多く,仏堂(修験所)を改築した。定音は正中元年(1324)8月6日寂となっている。

長崎四郎左衞門(長崎家初代の重光法名,行善の弟)がこの崖下にあった修験所を天文2年栄音外護等信の力をかり,崖の上にうつし,東向7間の堂をたて本尊大日如来を安置し,慈眼寺と称し,またこの頃,真言宗になったといわれている。

長崎家の系図によると四代の嘉国(四郎衛門慰)がこの寺を修理していることが,記録されているが,なお御嶽権現も鎮座されている。長崎家は菩提所として,行善寺を小田原から移しているので,この寺は,祈願所にあてられた。

明治維新後は,墓所を設定するようになり,現在260位の檀家があり,小説家甲賀三郎の墓がある。

本尊大日如来の木坐像は,嘉永6年(1853年)に大火災にあっている。寺伝に難をさけて来たとあるので確かなものと思われる。寺の過去帳しは「花園天皇の御念踊仏を相伝せる祐宣僧正の系統により,当山は永世五七の桐を定紋となすことを知るべし,文化十年三月之を記す」とある。定紋は本堂の屋根の棟につけてある。

なお,本尊の胎内には長崎家の系図があるという。

本堂にかかっていた扁額。

扁額

本堂の右に寺務所がある。

寺務所

東京都世田谷区瀬田4丁目10−3

地図などはこちら。

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