行善寺 世田谷区

いつも多摩サイに走りに行くときは、駒沢通りから丸子川沿いの道を走る。上流に向かう時は二子玉川につながる道を走るのだが、田園都市線のガードをくぐる手前の信号を右に。

かなり急な坂だがなんとか登れる。平坦になった道を少し走ると左手に行善寺がある。

行善寺入口

外から見ても、きれいに整備されている感じが伝わってくる。空気もそんな感じだ。山門は奥だが手前に案内看板があった。

行善寺案内板

獅子山西光院 行善寺(浄土宗)

本寺の開基(かいき)は長崎伊予守重光(法名・行善)、開山は法蓮社印誉上人伝光和尚(ほうれんしゃいんよしょうにんでんこう)であり、永禄年間(一五五八~一五六九)に建立された。

本尊は阿弥陀如来で、寺宝には玉川出現楠薬師(くすやくし)があった。

この地は展望にめぐまれ、江戸時代から玉川八景として有名であり、将軍も遊覧の折、しばしば立ち寄った。

二子橋舟     太田子徳

玉くしけ二子のわたり明ぬやと
見しや鵜舟の篝也(かがりなり)けり

昭和五十年二月

世田谷区教育委員会

境内に入ると、すぐに大きな檜がある。

檜

これが3つに分かれているのだ。これが行善寺のシンボルなのだろう。

三本に分かれた檜

小さいが厳かな雰囲気がある山門をくぐる。境内は石畳と石が敷かれている。木の手入れも行き届いていて、空気が凛としている。

山門

なぜか山門から真正面に本堂が建てられていない。本堂を正確に撮ろうとするとこんな感じになる。

本堂正面から

本堂はコンクリート造りだ。昭和39年に新築されたそうだ。

本堂

行善寺

浄土宗,獅子山西光院といい,喜多見の慶元寺の末寺である。

開基は長崎伊予守重光(法名行善)で,過去帳にようると,長崎氏は今川義元の家臣となっているが,後北条氏につかえたものらしい。天正18年(1590)に北条氏が没落したとき,瀬田郷に土着した,そのまえの永禄年間(1558~69)に伊予守重光は小田原の菩提所「道栄寺」から,先祖のいはいをたずさえて,瀬田郷にきたという,これをまつった寺が行善寺の前身である。

開山は法蓮社印誉上人伝公和尚であり,本尊は阿弥陀如来である。

寺宝には「玉川出現楠薬師仏があった獅子山行善寺,瀬田村,寛永2年の頃矢藤権兵衛と云者,玉川の流八幡下から百網にて引上る,取之」(武蔵演路)また「当寺縁起に六斉念仏おどり,此草より始めるといえり」とある。享保5年(1720年)10月12日の念仏同行19人の像が墓地の入口にある。

天保年間に11代将軍家斉のおなりや,12代将軍家慶の世つぎの右大将家定の休息があった。江戸時代多摩川の水害がたびたびあったので,生活を打開するため,台地上の開発がおこなわれるようになり,寛永3年(1626年)重光から4代の四郎衛門慰嘉国の時,行善寺下西北10数町歩の「下屋敷」から「原」へ上った。行善寺もその頃まで坂下にあったと考えられる。

近くの慈眼寺や御嶽権現は31年後の万治年中に台地上に移されている。

行善寺の建物は,明治19年の火災で多くの寺宝と共に焼失している。以後木造の寺が再建されたが,昭和39年11月本堂,客殿などが現代風の鉄筋に新築され,遠く多摩川堤付近からも,そびえて見える。

成島司道の『玉川遊記』にあるように,この台地は眺望が極めてよいことで世に知られ,瀬田の黄稲,岡本の紅葉,大蔵の夜雨,登戸の晩鐘,富士の晴雪,川辺の夕烟,吉沢の暁月,二子の帰帆は行善寺八景として知られていた。

長崎家当主行重氏は,重光入道行善から15代である。10代範重は二子村と両持を命ぜられ,12代重行は,天保3年徳川家慶将軍玉川鮎御成のとき長崎家で休息,13代重国は旧幕府硝石御取締に任ぜられた事がある。

「獅子山」と書かれた扁額がかかっていた。

扁額

このように木がすべて細かく手入れされている。

境内

境内に入ってすぐ左にあるお堂は何だろうと思ったら左の石柱に「多摩川新四國八十八ヶ所第三十八番」と書かれていた。

お堂

東京都世田谷区瀬田1丁目12−23

地図などはこちら。

行善寺 · 〒158-0095 東京都世田谷区瀬田1丁目12−23 浄土宗行善寺
★★★★☆ · 仏教寺院
世田谷区寺社
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