円泉寺 世田谷区

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三軒茶屋から茶沢通りを走ると、代沢十字路の手前で右を見るとこんもりとした木が見える。住宅地の中の細い道を少し走ると、円泉寺がある。太子堂の地名はこの場所がルーツだ。

円泉寺

山門はないが、右に聖徳太子の碑と大木の洞に庚申堂があり、これがすごいのだ。大木は腐ってしまって途中から切られている。回りに立っている石柱は、車の衝突よけだろう。

庚申堂

もう少し近寄って撮った。

拡大図

入口の左には案内板があった。

円泉寺案内板

円泉寺

聖王山法明院とよび、真言宗である。文禄五年(一五九七)に建てられ、開山は賢恵僧都である。本尊は不動明王立像及び二童子像である。また境内の太子堂には聖徳太子像がまつられ、太子堂の地名は、これにもとづいている。

世田谷教育会の恩人宮野芟平先生の碑がある。先生は、明治三年郷学所がつくられてから、太子堂幼童学所、荏原学校と、なまえは変っても、引きつづき校長として郷土の教育につくした。この荏原学校は区内最初の小学校である。

昭和四十九年三月
世田谷区教育委員会

境内は完全に舗装されていて土が出ていないが、よい空気が漂っている。後ろのマンションが都会のお寺らしい。

境内

入って右に太子堂がある。

太子堂

階段を上ってご挨拶。太子堂の扁額があった。

太子堂扁額

こちらが本堂になるのかな。

本堂

こちらでもご挨拶させていただいた。南無大師遍照金剛。

本堂

扁額には霊王山と書いてあるのかな。

せたがや社寺と史跡(その一)には円泉寺についてもっと詳細にこのように書かれていました。

円泉寺

真言宗,聖王山,法明院と号し,開山は賢恵僧都で葛飾郡新堀村の生れである。円泉寺の建立由来書によると,文禄1年(1592)賢恵僧都が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観世音を背負って関東へ下った。

文禄4年当地に来て一泊した時、賢恵僧都が不思議な夢をみた。聖徳太子が告げていうには「この地に霊地あり円泉ヶ丘といふ。つねに霊泉湧き出づ,永くここに安住せん。汝も共に止まるべし」と,翌文禄5年12月本堂,聖徳太子堂,庫裡が完成,本堂には運慶の作といわれる長さ約1mの十一面観世音立像を安置して本尊とした。

太子堂は,境内の中央にあり,約2間半4方で,長押に長谷の僧正動潮の筆になる「太子堂」の扁額がある。聖徳太子の像は約1尺1寸で弘仁9年(818)春,天下に大疫病流行の時疾疫の消除と国民擁護のため,弘法大師がこの尊像を精魂こめて作られたものと伝えられ,難症難治の病をいやし給うた所願成就の尊像である。

この堂が出来てから土地は繁栄し一つの村をなすようになり,太子堂の号をとって太子堂村というようになった。

円泉寺には現在泉は湧き出ていないが,この辺りは太子堂町でも低い所で円泉が丘すなわち今の国立小児病院一帯に樹林が繁茂していた昔は,霊泉の湧き出る清浄な所であったと思われる。

また,境内には世田谷教育会の大恩人である宮野芟平先生の碑がある。明治3年に世田谷村,松沢村,玉川村,目黒村,碑衾村の有志が協力して「郷学所」を作り宮野先生を迎えた。この郷学所は,今までの寺子屋と違い新時代に適した教材と,四民平等の新しい思想によって身分の上下を問わず教育した。

明治4年4月3日,太子堂村380番地に立派な校舎を新設し,「太子堂郷学所」と命名し,明治6年2月東京府の指令で「幼童学所」と改称され,明治6年12月「太子堂幼童所」をそのまま新学制の小学校にし,「第二中学区第四番小学荏原学校」となる。ここに世田谷区内で第1番目の小学校が生まれたわけで,宮野先生はその初代校長に任命され,以後引き続き校長として世田谷区の教育に尽力し明治28年3月現職中に逝去した。

先生の高徳を長く後世に残すために明治20年荏原小学校が火災にあい焼失したとき一時仮校舎であったこの円泉寺の境内に頌徳の碑が建てられた。

本堂右手に寺務所がある。

そばに大師像もあった。

帰り道、このお寺の塀の前に林芙美子旧居の案内板があるのを発見した。

林芙美子旧居の案内板

林芙美子旧居
(太子堂三丁目29)

此の露地奥の二軒長屋は、林芙美子の不遇な時代の寓居です。その一軒には壺井繁治、栄夫婦が住み、若い頃の平林たい子も度々訪れました。

芙美子の処女作「放浪記」にはこの頃の太子堂での生活の一こまが描かれています。

壺井栄の「はたちの芙美子」にも当時の生活が記されています。芙美子のすぐれた文学性が磨かれた場所として文学史上、記念されるべき場所と言ってよいでしょう。

昭和四十七年三月
世田谷区教育委員会

東京都世田谷区太子堂3丁目30−8

地図などはこちら。

円泉寺 · 〒154-0004 東京都世田谷区太子堂3丁目30−8
★★★★☆ · 仏教寺院

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