覚願寺 世田谷区

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東急上野毛駅から環八を渡り、多摩川に向かう国分寺崖線の坂道を途中で左に曲がると覚願寺がある。幼稚園が併設されていて、境内が幼稚園の庭としても使われている。

山門のすぐ後ろに大木がある。

世田谷区の保存樹木になっている。ケヤキだそうだ。

山門をくぐって左を見るとお堂がある。

右が幼稚園。このように境内には子供用の遊具もある。

満開になった桜は、このところ低温だったので、まだ花がたくさんついている。

まずご挨拶をさせていただいた。

本堂の左には世田谷区の案内板があった。

覚願寺

自性山聖徳院覚願寺(じしょうざんしょうとくいんかくがんじ)と称し、真言宗智山派に属する古刹である。

「新編武蔵国風土記稿」には、「此寺元は村の西の方台の下にありしが、いつの頃からか此所に移せし」とのみあり、その創建の時期を明らかにしていない。

しかし、文禄三年(一五九四)の『武州荏原郡世田谷領上野毛郷御縄打屋敷帳』には覚願寺の名が見えており、この頃寺地が確定したと考えられる。

本尊は大日如来で、脇仏として弘法大師と興教大師が祀られている。

なお、享保六年(一七二一)の『両大師造立帳』(当寺所蔵)には聖徳太子像(木造漆箔、江戸時代現存)が本尊であったことが記されている。当時の院号が「聖徳院」と称されているのはこのためだろう。その後、大日如来像が本尊とされたようで、現在もこの大日如来像が当寺の本尊となっている。

文政七年(一八二四)には本堂が大破したため大修理を行った記録が残されている。現存する本堂、観音堂は天保年間(一八三〇~一八四三)に再建されたものである。

総門は、昭和六十三年に造営された。

平成元年九月

世田谷区教育委員会

山門を入った左にあるお堂は、観音堂だとわかった。本堂から山門を振りかえる。

さらに、せたがや寺社と史跡(その二)には次のように書かれていた。

覚願寺

真言宗智山派に属し,自性山聖徳院覚願寺と称し,天文年間(今から約400年前)の建立と伝えられている。本尊は大日如来で,脇侍は弘法大師と興教大師で,位牌堂には聖徳太子,観音堂には聖観音像を奉安してある。

開基は詳らかでないがつぎの記録により天文年間,あるいはそれ以前の建立であることが立証される。

当山檀徒木村富次家の墓地に「天文十二年<1543>八月二十日,皈源寂山宗空居士覚粒・施主木村氏」の墓あり,同檀徒田中重義所蔵の検地帳(文禄3年<1549>10月6日)に,検地の案内者木村外記の名がでており,その外記の子孫が前記木村富次家である。

『御縄打屋敷帳』の中に「学岩寺」とあるのが当山覚願寺のことであり,その1節につぎのようなことが書かれてある。「小松原(字名)十五間に十四間の下畑七畝,筑後分学岩寺作,宮の前(稲荷神社前)二十五間に十間半の中田八畝二十二畝,助七郎分 覚願寺作「御縄御免引寺一間覚願寺作」とあり,1間とは1軒の義で,屋敷帳はすべて「御縄打」測量の結果たる当時の課税台帳となったのであり,寺は免除されたのである。

なお,当山什物「過去帳」の中の,明和9年(1772)別当覚願寺権大僧都頼憲の誌文をみると,瀬田八幡宮鳥居造営とあるように,他村の八幡宮(現玉川神社)の別当をつとめた。

天保年間(1830~44)までは専住によって壇信徒の護持と教風の宣揚につとめてきたが,弘化年(1844~8)間より任住不明(または断絶)のまま明治8年に至り,ようやく内藤隆深(現深沢医王寺)先々住の兼務によって護持され,昭和3年12月森同隆宥の専住によって漸次寺門の興隆がはかられ,昭和25年5月現住職が着任し今日に至っている。

東京都世田谷区上野毛2丁目15−15

地図などはこちら。

覚願寺 · 〒158-0093 東京都世田谷区上野毛2丁目15−15
★★★★☆ · 仏教寺院

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