東玉川神社 世田谷区

駒沢公園から自由通りを中原街道に向かってずっと走る。自由通りと中原街道がぶつかるのは、東急池上線の雪が谷大塚駅前だが、その少し手前、左側に東玉川神社がある。

こぢんまりした神社だが、見た瞬間に雰囲気がいいなとわかる。

東玉川神社

鳥居の手前左に世田谷区の案内板がある。世田谷区は意外と案内板がないところが多いのでもっと整備してほしいね。

案内板

世田谷区登録有形文化財(建造物)
東玉川神社社殿(ひがしたまがわじんじゃしゃでん) 一棟

登録年月日 平成二十一年三月三十一日

この社殿は昭和十四年(一九三九年)に拝殿(はいでん)、翌十五年(一九四〇年)に本殿(ほんでん)を渋谷区本町の氷川神社から譲り受けて移築したものです。伝統的な和様の社殿は、地域の歴史を伝える建造物として貴重なものです。

向背(こうはい)の天井板には、弘化二年(一八四五年)、萬遷による「火炎龍神像(かえんりゅうじんぞう)」(正面座臥 ざが)が水墨で描かれています。

あたりを祓う高位尊厳とすさまじさが火焔となって立ち昇り、邪悪を祓う姿を表現したものです。

平成二十三年七月

世田谷区教育委員会

鳥居をくぐると、すぐ左側に何やら石碑が。ちらっと読むと御由緒が書かれているのがわかった。読みにくいので、とりあえず一枚撮っておいた。

東玉川神社社殿修復落成記念碑

東玉川神社社殿修復落成記念碑

御祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)(大国主命の第二神開拓の神) 大山咋命(おおやまぐいのみこと)(五穀豊穣の神)

東玉川神社は清流多摩川と平行した、自由通りに位置し、風水の龍脈にあたります。当神社は今から約二百有余年前に、長野県の諏訪大社から御分霊を勧請し、鎮守の神と崇め篤い信仰を受け、代々の神職は氏子、崇敬者の家内安全、農耕繁栄、商売繁盛等を祈願してきました。

尚、現在の社殿は、昭和十四年に渋谷の地より移築されたもので、「新編武蔵国風土記稿」に慶長十年(一六〇五)徳川二代将軍秀忠の頃と記された由緒ある建物です。

向拝の天井には、「火焔龍神」の絵が水墨で描かれ、左下に弘化元年(一八四四)と著されております。約四百年の風雪に耐えた社殿は、青銅の屋根が腐食、瓦の破損、拝殿の扉などが傷み、その修復を総代会で決議し、奉賛会(鈴木幸雄会長)を結成、五ヵ月間にわたる工事も無事修復を終え、十月二十四日落成奉告祭を斎行いたしました。

大神様の御神徳のお陰はもとより、氏子崇敬者の真心の結晶であります。ここに、多額奉納者の芳名を記し、顕彰いたします。

平成十一年十一月吉日

宮司 関根光男 謹書

右に手水舎があったが、時節柄、使用不可であった。

手水舎

細い参道を歩いて行くと、何となく楽しい気持ちになってくる。ここはよい場所だなと思う。

参道から本殿

さて、ご挨拶させていただこう。

本殿

左の狛犬さん。

狛犬

右の狛犬さん。

狛犬

本殿は大きくはないが、ここに立っているのが気持ちよい感じがする。

本殿

コロナが早く収束するようにお願いした。

せたがや寺社と史跡(その二)にはこのように書かれていた。

東玉川神社

もと等々力村に属し,字を諏訪分と称し,下沼部・奥沢本村・雪ヶ谷の3村に囲まれた地で,大平分とも称した。現在,東玉川町となったので,その鎮守諏訪神社を東玉川神社と改めた。大平分というのは大平出羽守の砦があったからだという。

東玉川神社は,勧請の年月不詳,『新編武蔵国風土記稿』によると,「社二間ニ九尺,同村西光寺ノ持」となっていた。

祭神は大山昨神・建御名方神で,例祭は8月22日である。西光寺は廃寺で,等々力村にあり,住慶山と号し,満願寺の塔頭で,本尊は大日如来の1尺5寸(45cm)の坐像,火災にあって,わずかに庵室のみが残っていた。

そして見上げると、これが「火焔龍神」の水墨画だ。

本殿から参道をふり返ったところ。

隣には、撮らなかったが神楽殿と、稲荷社があった。

東京都世田谷区東玉川1丁目32−9

地図などはこちら。

東玉川神社 · 〒158-0084 東京都世田谷区東玉川1丁目32−9
★★★★☆ · 神社
世田谷区寺社
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