東急世田谷線を三軒茶屋から乗り、次の駅(といっても至近距離だが)西太子堂で降り、200メーターも歩くと太子堂八幡神社がある。
こぢんまりしているのだが、なかなか華やかな雰囲気がある神社だ。
近づいて行くとのぼりや看板があり、曇りの日でやや暗いとはいえ、昼間なのだが明かりが点けられている。
鳥居の手前左には弁財天社があり、しゃもじを奉納するようになっていた。
遠くから見ても厄年が大きく見える。
社務所横には休憩所もあり、明かりがついている。大きな神社以外でこうした休憩所がある神社は見たことがない。
社務所では御朱印を求める人が並んでいた。私は御朱印を集める趣味がないので、たまにおみくじを引いたりお守りを買う時以外は社務所に寄らないが、明かりがついていると暖かい雰囲気だ。
まずは手水を使って。
狛犬さんに挨拶。こちらは阿。
見えにくいがこちらは吽。
社殿は大きくはないが小さくもない。初めて来たのでご挨拶させていただいた。
左の神楽殿には仕掛けつきの招き猫とウサギさんがいた。
清めの御塩。置いてあるのを見たことがほとんどないような気がする。ほしい方は行ってみて下さい。300円。
御由緒が書かれていた。御由緒を読むのが好きである。
太子堂八幡神社略記
御祭神 誉田別尊
大祭 十月第二日曜日
社殿改築 昭和十二年八月十日御由緒及此地の沿革
当社の鎮座年歴不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦一五九二~六年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向かう途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。
太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉に通じる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。
此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった。太子堂上本村一二一~二番地の辺を(五丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わせた名残である。
真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の號をとりて部落の村名とした。
以上は古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。
御祭神、誉田別尊とは「ほむたわけのみこと」と読む。応神天皇のことだ。
良縁結びなんてのもあったぞ。
東京都世田谷区太子堂5丁目23−5
地図などはこちら。
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