碑文谷八幡神社 目黒区

碑文谷八幡神社は、東急東横線学芸大学駅からも東急目黒線西小山駅からも同じような距離だ。西小山駅からは参道があるので分かりやすい。

参道は、呑川の暗渠なのだそうだ。特に桜の季節は、西小山からはずっと満開の桜並木が続くのでとてもきれいだ。

ちょうど朝の掃除をしている時間帯に行った。最近、寺社を訪ねることが多いのだが、どこに行っても境内は清浄な感じがする。

その理由の一つは、毎朝このように丁寧に掃き清められ水がまかれているからなのだろう。自分の家もこのような空気が漂うと、体にも心にもよいはずだ。

初詣は地元の人が大勢訪れ、かなり長い列ができると聞いている。

一の鳥居から入る。

天気がよく、日差しが強くて白飛びしてしまった。目黒区みどりの散歩道。碑文谷-立会川コースの看板があった。

小さな砂利を敷いた参道を歩くと二の鳥居がある右の塀の中は社務所だ。ここからは木が茂っていて今日みたいに日差しが強い日は涼しくていい。

少し歩くと最後の鳥居がある。鳥居の右に目黒区教育委員会が設置した看板がある。

由来が書かれていた。

碑文谷八幡宮

碑文谷3-7-3

この神社は、旧碑文谷村の鎮守で、祭神は応神天皇です。畠山重忠(1205歿)の守護神を家臣筋の宮野左近という人がここに祀ったのがその起源だといわれています。

創建年代は不詳ですが、「四神地名録」や「新編武蔵風土記稿」にも記されている由緒ある神社です。

社殿は、延宝2年(1674)に建てられ、その後明治5年に再建、同20年に改築されました。

本殿の右側に重忠の臣、榛沢六郎を祀った稲荷社があり、また碑文谷の地名の起こりとなったともいわれる梵字を刻んだ石(碑文谷)が保存されています。

なお、当社には勝海舟筆の「額」や「のぼり」が所蔵されています。

祭礼は春秋の2回で、昔ながらの”目黒ばやし”の音もなつかしく、みこしやだしも練り歩き賑やかです。

平成4年3月

目黒区教育委員会

朝の掃除の最中だったのだが、すがすがしい空気が漂っている。以前、来た時にはこんな風に感じなかったので、掃除しているからかもしれない。

手水舎はすぐ左にあるが、本殿はまた階段を上った先だ。すぐ右に井戸がある。もちろん、使用できる。(水がでている)

本殿にごあいさつさせていただいた。手前には檜(ひのき)が1本立っている。ちゃんと敷石は根元をよけて敷かれている。現在の太さなら、もっと太くなるだろう。

狛犬さんも1枚ずつ撮らせていただいた。こちらは右。

そして左。

本殿右には、碑文石と由来に書かれていた、榛沢六郎を祀ったという稲荷社がある。

碑文石(ひもんせき)の案内板。こういうのはじっくり読むとためになる。

碑文石(ひもんせき)

この碑文石は、碑文谷の地名の起こりともなったといわれ当碑文谷八幡宮では信仰の遺物として、また歴史資料として大切に保存に努めてまいりました。

碑文(ひもん)を彫った石のある里(谷)という意味から碑文谷の地名が起こりました。

碑文石は近くの呑川の川床に露出していた上総(かずさ 三浦)層の砂岩で、普通、沢丸石(さわまるいし)と呼ばれる石を材料としています。

この碑の上方には、中央に大日如来(だいにちにょらい バン)、左に熱至菩薩(せいしぼさつ サク)、右に観音菩薩(かんのんぼさつ サ)の梵字が刻まれており、大日を主尊とした三尊種子(さんぞんしゅじ)の板碑(いたび)の一種とみられます。

高さ七五センチ、横(中央)四五センチ、厚さ一〇センチ、上部が隅丸、下部が下脹(しもぶく)れのやや角張(かどば)った形をしております。

碑文石は、昔、碑文谷八幡宮の西方を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたものと伝えられ、大日と異系(いけい)の二種を合わせて表しているので、恐らく、室町時代のものとみなされます。

江戸時代の名著、「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」などに碑文石のことが書かれています。

この碑文石には造立の趣旨や紀年は彫られていませんが、中世の人びとの信仰状況を知る上に貴重なものです。

昭和五十八年四月

碑文谷八幡宮

碑文石(ひもんせき)はガラスに写ってしまうので撮りにくい。

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