金剛寺 世田谷区

中町天祖神社と上野毛通りを挟んで反対側に金剛寺はある。大きな木があるので、離れたところからもわかりやすい。

山門右にある石碑。とても読みにくい。裏にきっと日付が入っているのだが、見てくるのを忘れた。

表には、「坂東七薬師 弘安七年聖空上人勧請 霊佛 北向薬師如来 東洋山薬王院金剛寺」と書かれている。

東洋山と書かれている山門。

山門の左には世田谷区の案内板があった。

東洋山薬王院金剛寺(真言宗)

弘安七年(一二八四)聖空上人が薬師如来を勧請、一宇を建立したのに始まり、野良田の北向薬師と称し坂東七薬師の一として信仰を集めた。この地に土着帰農した吉良の遺臣粕谷遠江守が入道して心臾道中沙弥と称し、慶長年間(一五九六~一六一四)頼栄法印を開山第一世として、金剛寺を創建し、一族の菩提寺とした。

本尊は大日如来。寺宝には絹本愛染明王像(天文十六年)鰐口(元禄十一年)金欄七条袈裟(正徳二年)がある。

昭和四十七年三月

世田谷区教育委員会

山門をくぐって、境内に入ると、あれっ、ここはよい場所だなとまず感じた。境内はそれほど広くはない。

本堂に向かって少し歩いて右を見ると案内板と薬師堂があった。眼病と安産に効験ありと書かれていた。

霊佛北向薬師如来縁起

弘安七年(一二八四)聖空上人巡錫の折武蔵國荏原郡野良田村(現中町)の厚木裏街道に北面した現在の地を卜し一宇を建立し薬師如来を勧請して世の淨信をあつむ

故に昔より野良田の北向薬師と称せられ霊験あらたかにして特に眼病・安産に効験ありと世人に厚く信仰され坂東七薬師の一つとして世に広く喧伝せられる

秘仏北向薬師如来は日光・月光両菩薩の脇侍と十二神将の眷属を従えている

旧堂宇は元禄期の建物故腐朽甚しく爲に昭和四十一年春再建す

東洋山薬王院金剛寺

こちらが本堂である。金剛寺の額が掲げられている。

本堂全体を正面から撮るのを忘れた。こちら右の大師像から。

せたがや社寺と史跡(その二)にはより詳しく書かれていた。

金剛寺

新義真言宗智山派に属し,京都智積院の末寺で,東洋山薬王院金剛寺と称する。本尊は大日如来で,脇侍は不動明王と観音菩薩である。

寺伝によれば弘安7年(1284)聖空上人巡錫の時、たまたま荏原郡野良田村(現在の玉川中町)に錫を止め現在の地を卜して一宇を建立し,薬師如来を勧請して世の浄信を集めた。

実にこれをもって金剛寺の開基とする。以来今日にいたるまで野良田の北向薬師と称し,霊験あらたかにして特に眼病・安産に効験あって世人に厚く信仰され,坂東の7薬師の一つとして世に広く喧伝せられている。山門に入って右側にある薬師堂に安置され,昔より秘仏として開扉を禁ぜられている。なお,旧堂宇は元禄期(1688~1704)の建物で腐朽甚しかったので,昭和41年,現在の間口3間(5m)奥行3間半(6m)のものに改築された。

天正18年7月(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により小田原の北条氏は滅亡し,従って麾下の世田谷城主吉良氏も衰亡したのであるが,吉良氏の重臣粕谷遠江守(与右衛門)は主家と運命をともにし,世を遁れて,弦巻村にひそみ,後,野良田村に移住,ここを開拓して土着した。

入道して法名を心臾道中沙弥(元和6年<1620>)と称し,3月21日没し行年82才,中町粕谷家の元祖で,以後代々宗家として野良田の名主をつとめた。ついでさきの聖空上人北向薬師如来を奉祀し,慶長年間(1596~1615)頼栄法印(慶安3年<1650>10月13日示寂)を請うて粕谷1族(現在70余家)の菩提寺金剛寺を現在地に建立した。

よって頼栄法印をもって金剛寺開山第1世とし,第26世の現住にいたっている。なお,旧本堂は関東大震災で倒壊したので,現住職が檀徒に請うて7間4面の現本堂を再建し,ついで客殿・山門などを建立して往時の旧観に復せしめた。

昔から寺に伝えられてきた宝物として,愛染明王像(絹本,天文16年<1547>奉納箱書)・青銅鰐口1口(薬師堂・元禄11年<1698>12月,粕谷伊兵衛基次・粕谷伝兵衛奉納)・金欄七条袈裟1領(正徳2年<1712>金剛寺住職定精法奉納)がある。

本堂から山門を振りかえる。

途中にならんでいるお地蔵さん。

山門を左から撮った。

東京都世田谷区中町2丁目20−11

地図などはこちら。

金剛寺 · 〒158-0091 東京都世田谷区中町2丁目20−11
★★★★☆ · 仏教寺院
世田谷区寺社
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