久しぶりに九段下に行った。隣の神保町には定期的に行くが九段下には行かない。九段下は武道館と靖国神社の街だといってもよいかもしれない。
春の武道館は、3月になると毎日が大学の卒業式であり、4月になれば入学式である。また、コンサートも多く、不思議な格好をした人が昼間から歩いている時は、何かコンサートがあると思って間違いない。
そして、8月15日の終戦記念日は、靖国神社は特別な場所になる。
九段下駅の3a出口から出て、少し歩くと、緑があるちょっとした公園のような場所があるのだが、そこを通り抜けると、築土(ちくど)神社の社殿に出る。
神社の裏から歩いて行くのだが空気が少し変わる。
築土神社は、ビルの谷間にある小さい神社なのだが、なかなか立派な作りだ。フルサイズのデジカメに17ミリのレンズをつけていっぱいにいっぱいに下がってビルの壁に背中をつけて撮った。とても狭い。
あおって撮っているので、ゆがんでいるが、何とか収まった。
社殿前は神社特有の清浄な空気が漂っている。
手水を使って、ご挨拶させていただいた。社殿横におみくじ(100円)があったので引いてみた。普段あまり引かないのだが思いつきで。吉。内容もよかった。当たるかな?
社殿横のオフィスビルは、築土神社が建てた7F建てのビルだ。1F奥に社務所がある。ビル入口が本当に社殿前なので、働く人は毎朝毎晩清められることになる。社殿前は空気が違う。
後ろをふり返ると、向こうに鳥居がある。
なかなか立派な狛犬さんだ。こちらは社殿に向かって左側。
こちらは右側。こちらが「阿」なのか。狛犬の説明があった。御由緒も書かれていた。
千代田区指定有形民俗文化財
平成八年四月指定
狛犬(こまいぬ)
本狛犬は、台座部分もあわせると高さ一・五メートルほどになる一対の石像です。左右の像とも本殿から見た面に「元飯田町(もといいだまち)」「惣氏子中(そううじこちゅう)」「安永(あんえい)九庚子(かのえね)十一月」との銘文が刻まれています。
元飯田町というのは、現在の富士見一丁目および九段北一丁目あたりのことです。天正十八年(一五九〇)の徳川家康(とくがわいえやす)の関東入国(かんとうにゅうこく)ころより、中坂(なかさか)や九段坂(くだんざか)の坂下一帯を飯田町と称していましたが、元禄十年(一六九七)の火災で町が築地に移されて南飯田町となった際に、九段中坂一帯に残った町地を元飯田町と呼ぶようになりました。
社伝によれば築土神社(つくどじんじゃ)は、天慶(てんぎょう)三年(九四〇)平将門(たいらのまさかど)の霊(れい)を武蔵国豊島郡上平川(かみひらかわ)に祀(まつ)り、津久土明神(つくどみょうじん)と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安(たやす)に遷座(せんざ)して田安明神と称しました。
元和(げんな)二年(一六一六)には牛込(うしごめ)門外の筑土山(現新宿区筑土八幡[はちまん]町二番地)に遷座して築土明神となり、途中明治七年(一八七四)には築土神社と改称しましたが、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。
しかし昭和二十年(一九四五)空襲で社殿などを悉(ことごと)く焼失し、二九年には九段中坂の世継稲荷(よつぎいなり)神社境内、すなわち田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。
元飯田町の住人が本件狛犬を奉納した安永九年(一七八〇)には、築土神社は彼等の居住地から少し離れた場所にありました。
元飯田町の住人は、自分たちの信仰の対象である神社が牛込に遷座したあとも変わらぬ信仰を続け、いわばその証(あかし)として本資料を奉納したのだともいえます。
また本件狛犬の一方の頭上には「角」が、また他方の頭上には「宝珠(ほうしゅ)」がのせられています。これは厳格な意味で前者を「狛犬(こまいぬ)」、後者を「獅子(しし)」と意識して区別したことの表れであると思われます。
区内の寺社などに現存する最古の狛犬であるこの築土神社の狛犬は、私たちに築土神社の江戸時代の信仰の広がりを伝え、かつて千代田区域に居住していた人々の暮らしと信仰の様子を語りかけつつ、九段の一隅(いちぐう)に佇(たたず)んでいます。
平成九年三月
千代田区教育委員会
こちらが正式な入口だ。九段下の駅から歩くと少し遠回りになる。
社殿右には世継稲荷(よつぎいなり)への通路がある。狭いのだが、なんだか面白い。
途中に力石があった。
千代田区指定有形民俗文化財
指定 平成元年四月
『力石』
「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形(だえんけい)の石で、村の鎮守(ちんじゅ)、神社境内、会所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されている。
古来わが国民間信仰(しんこう)では石に係わる信仰は多い。石に心霊がこもる、あるいは石を依代(よりしろ)としている神々も多い。
また「力石」に於ける伝承の一つとして、「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋(おおわらじ)」同様と考えられる。
しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は村々に疫病(えきびょう)の侵入を防ぐための神であり、呪(まじな)い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)
境内にある「力石」の由来は詳(つまび)らかではないが江戸・東京若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である。
なお「力石」に刻まれている『元飯田町』とは、『中坂』を南北にはさんだ現九段北一丁目にあたり、江戸時代からの町名である。
平成二年三月
千代田区教育委員会
こちらが世継稲荷神社の社殿だ。
築土神社には公式サイトがあった。
東京都千代田区九段北1丁目14−21
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