駒沢通りから丸子川沿いに丸子橋に向かって走ると、中華風(?)な特徴がある善養密寺の前を通るが、その隣にあるのが六所神社。丸子川沿いの道からは見えないの気がつかなかった。もちろん、初めて行った。
丸子川からここまでかなり急な登り坂だ。国分寺崖線の崖。
石垣と石段があり、かなり立派な造り。
境内は広い。
境内に入ると、少し印象が変わった。本殿は新しい感じがして大きい。末社も立派だ。ただ、あまり人が来ている感じがしないのは季節のためか気のせいか?
手水舎は、自分で水道栓をひねって水を出す仕組みだ。水はあまりたまっていなかった。そうか、こんな所が人が来ていないように感じられたのか。
神楽殿も大きい。
立派な本殿である。コンクリート造りで広い。
せたがや寺社と史跡(その二)にはこのように紹介されていた。
六所神社
六所神社は元和年間(1615~23)遷座と伝え、古くより上下野毛両部落の鎮守で,上下野毛境にあった。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊で,例祭は9月26日である。
明治31年に村内の末社天祖神社・山際神社・日枝神社・北野神社の4社合祀となり,新たにその祭神天照大神・大山都見之命・大山昨之命・菅原道真を現在地に奉斎した。ただし,合祀社は明治23年に天祖神社に合祀したのを,さらに六所神社に合祀したのである。
『新編武蔵国風土記稿』によると,「除地一段五畝,(中略)上屋九尺二間,本社六尺ニ八尺,西向ナリ」とある。この社は昔洪水のとき,府中の方より流れ来るものがあり,この所の榎の枝にかかったのを取上げて見ると小祠であった。府中の方からも流れてきたというので,土地の人は六所明神と崇めて1社を草創したという。鳥居も西向きに立て,別当は善養寺であった。
現在,鉄筋コンクリート造の社殿を建造中で11月に落成する。聖地の際,石鏃・縄文土器片が多数発見された。近くに六所東貝塚があった。縄文前期に属する,黒浜式と諸磯式で,多摩川に面する斜面に形成されていた。
貝殻には,ヤマトシジミ・ハマグリ・マガキ・アカニシ・キサゴ・シオフキなどがあり,当時は東京湾の海水が浸入していたと思われるが,ヤマトシジミが多いことはすでにこの付近は河口になっていたことを示しているのかもしれない。もちろん竪穴住居が設けられていた。
ここは国分寺崖線の崖だから海ではないが、ここから貝殻がたくさん発見されたので、昔はこのあたりが河口だったかもしれないという話。
ちなみに、ここから今の河口、羽田の弁天橋あたりまでは、まだ10キロほどの距離がある。
伊弉諾尊はいざなぎのみこと、伊弉冉尊はいざなみのみことである。この(その二)は昭和44年、1969年に発行されている。今から50年前のことだ。その頃にこの社殿が完成したということになる。
左の狛犬さん。
右の狛犬さん。
扁額も1枚撮った。
本殿の左に末社の多摩川水神社がある。ここが面白かった。御由緒を知りたいところだ。
鳥居をくぐると、小さな「多摩川水神橋」がある。
川にはこのようになまずとコイが泳いでいるのだ。
狛犬さんの顔もなんだかかわいい感じだ。
本殿から多摩川を見下ろすことができる。丸子橋までもう少しだから、武蔵小杉の高層ビル群が見えている。
東京都世田谷区野毛2丁目14−2
地図などはこちら。
コメント