池尻に用があり、行ったついでに池尻稲荷神社に寄ってみた。246沿いにある神社だ。こちらは246側の鳥居。境内は奥行きがある。
なかなか立派な公式サイトがあった。
ここが2番目の鳥居だ。連休最後の日なので参拝客がちらほら。あじさいの花が咲くのがこれからなので、葉っぱに勢いがある。
鳥居をくぐって少し歩き石段を上ると左手に手水があった。普通の手水と違って、何やら看板があるではないか。
この手水は湧き水でした。
「薬水の井戸」御由緒
この手水舎の水は、当神社境内にある「薬水の井戸」よりの引き水です。
「薬水の井戸」は、山城国伏見の稲荷山に御鎮座の薬力明神の神託により、「神の道を信じ勤め、その病気の平癒を心に三度祈念し、神の道の薬として飲みほせば、薬力明神の力により病気立ち所に快癒す」と伝えられている明泉です。
往時、この旧大山街道筋には赤坂一ツ木村より池尻村まで飲用水がなく、往来の人、農民、みな頼りにしたと伝えられています。
又、「涸れずの井戸」と云われて、現在もこの井戸水は、如何なる渇水時にも涸れることなく、常に豊富に湧き出ております。
柱に水質検査の結果の表が貼られていた。一般細菌、大腸菌も検出されず、塩化物イオン、有機物、pH(6.6でした)、硝酸態窒素などすべて問題なしとのこと。
つまり、飲用可の水だ。もちろん、飲んでみた。水道水とは違うやわらかい舌ざわり。
旧大山街道とは何だろうと調べたら、ウイキペディアにでていた。
大山道(おおやまみち・おおやまどう)とは、主に江戸時代の関東各地から、相模国大山にある大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の総称。
大山街道(おおやまかいどう)とも呼ばれる。代表的なものとして、「田村通り大山道」や「青山通り大山道」などがある。(出典)
どうやらここは、赤坂御門を起点とする青山通り大山道の途中なのだ。大山とは丹沢の一番高い山である。雨乞いに歩いて行ったらしい。すごいな。
大山阿夫利神社はサイトがあった。
境内には、池尻稲荷神社の御由緒があった。横長なので1枚に収まらない。
池尻稲荷神社御由緒
世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)をお祭りしたもので、今から約千三百年の昔、和銅四年の二月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したものが始まりです。
この神は、「稲がなる」イナリに別名が示すように五穀の成育や全ての産業を育成する広大な御神徳のある神様ですから、あらゆる人々の信仰をうけ、全国各地の神社や邸内にも祭られています。
池尻稲荷神社は、今から約三百五十年前の明暦年間(江戸時代の初期)に旧池尻村、池沢村の両村の産土神(ウブスナガミ)として創建鎮座になったものでそれより村の共同生活と信仰の中心として現在に至りました。
俗信仰としては古くから「火伏の稲荷」「子育ての稲荷」として霊験あらたかとして伝えられており、又、江戸時代の随筆集にも池尻村の産土神は特に氏子の加護をする旨の奇談が掲載されています。
当時は大山街道(今の旧道)のほとりに常光寺の一偶に勧請されたもので、村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢往還(今の二子玉川方面道路)と津久井往来(今の上野方面バス道路)の二つの街道からの人々が角屋、田中屋、信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休憩して江戸入りする道筋にありました。
又、江戸から大山詣での人々が大坂(現在、目黒区青葉台上通り、三菱UFJ銀行青葉台分館を経て大橋への坂道、当時は大変な急坂で農民泣かせといわれた)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤く現今も遠方の崇敬者が多いのは当時からの御神徳のあらわれであります。
なお、境内にある井戸水は京都伏見の薬力明神の神託による霊水として知られております。
ご神木は、クスノキだった。
もちろん、大きすぎて入らない。
本殿にごあいさつした。
左にあるこちらは、清姫稲荷神社。御神体が白蛇ではないかと伝えられているとか。ヘビは智恵の象徴でもあるので、芸事や学業成就の御利益があるらしい。
社務所は立派だなと思ったら、マンションの1Fにあるのだ。本殿の隣にある赤っぽい色をしたマンションがそれだ。マンションはきっとこちらの神社が建てたのだろう。住んでいる人は、出かける時と帰って来た時に境内を歩くことになるのでいいなあ。
もっと都心にいくと、神社がオフィスビルを建てて経営しているところもある。もちろん、入口が神社の境内なので、いつも清浄な感じがある。働いている人は気分がよいだろうなと思う。
こちらが住宅地側の鳥居だ。
地図などはこちらのリンクを見てください。
東京都世田谷区池尻2丁目34−15
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